秦良玉は美少年を囲っていたのか?

 あまり気が進まないが、「秦良玉が男妾を囲っていた」という『蜀碧』の記述について書いておこう。秦良玉の傳と分けたのは、下世話な話を一緒にしたくなかったためである。

『蜀碧』(国会図書館デジタルコレクション)

巡撫邵捷春移秦良玉兵至重慶。時知綿州陸遜之罷官歸。捷春遣按行營壘。過秦,秦冠帶佩刀出見,左右男妾十餘人。

『蜀碧』巻一

四川巡撫・邵捷春は秦良玉の軍を重慶に移した。ちょうど錦州知事の陸遜之が職を辞して帰郷していたので、邵捷春は彼に麾下の各軍営を巡察させた。秦良玉の陣の前を通ったとき、彼女は礼服を着け、佩刀を帯び、左右に男妾十数人を伴って陸遜之を出迎えた。

 この記述が何に由来するのかは分からない。ほぼ同文は呉偉業の『綏寇紀略』や毛奇齢の『蠻司合志』にも見え、明末清初にはすでに流布していた逸話らしい。『棗林雜俎』はさらに山陰公主の故事を組み込んで、この噂をひとつの完成された小話に仕立てている。
注:版本によっては「左右男女十餘人」となっている。『男妾』とする系統が確実にある一方で「男女」とする本文も通行している。

『棗林雜俎』巻四(中國哲學書電子化計劃)

山陰朱燮元,總督雲貴川廣。石砫宣撫司女土官秦良玉,雅度侃議,傔從俱美少年。朱公子壽宜訪之,酒間微諷,良玉笑引南宋山陰公主云「陛下後宮百數,妾惟駙馬一人。」以答。

『棗林雜俎』

朱燮元は山陰縣(浙江)の人で、雲南、貴州、廣西の総督を兼ねた。石砫宣撫司の秦良玉は振舞が優雅で、その言葉は率直であった。いつも側に美少年を侍らせていた。朱公の子・壽宜が彼女を訪ねたとき、酒の席で(おつきの美少年のことを)それとなくからかうと、秦良玉は笑って、宋の山陰公主の故事を引き「陛下には後宮にたくさんのお妃がいらっしゃいますのに、私には夫が一人だけなんて不公平じゃありませんこと?」と答えたという。

 かつて皇女の婿が駙馬都尉に任ぜられたことから、「駙馬」とは貴人の娘婿を指す。「妾惟駙馬一人」を直訳すると「私の夫はただ一人だけです(夫の死後も孤閨を守っていますよ)」となるが、これには本来続きがあり、「女が男を囲って何が悪い」と言っているのである。省略された部分について『宋書』を見てみよう。

山陰公主淫恣過度,謂帝曰:「妾與陛下,雖男女有殊,俱託體先帝。陛下六宮萬數,而妾唯駙馬一人。事不均平,一何至此!」帝乃為主置面首左右三十人。『宋書』本紀第七

山陰公主は大の男狂いで、あるとき弟の劉子業(前廃帝)に「私とあなたは男女の違いこそあれ、ともに先帝の子として生まれました。にも関わらず、あなたには大勢の美女が後宮にいるのに、私には夫が一人だけ。こんな不公平なことがあっていいものでしょうか!」と言ったので、廃帝はすぐに美男子(面首)三十人を選び、姉に侍らせるよう手配した。

 「淫恣過度」とか酷い言われようである。男が好き勝手しているのに、女にだけ貞淑であることを求めるな、というのは正統な主張に思える。……いや乱倫を推奨するわけではないが。


 さて、この「秦良玉が男妾を囲っていた」という話には当時から批判があった。たとえば朱彝尊は李長祥の言を借りてこう反駁している。

野紀謂,良玉有男妾數十人。而䕫州李吉士長祥力辯其誣謂:「川撫嘗遣陸緜州遜之按行諸營,良玉冠帯飾佩刀出見,設饗禮酒數巡,論兵事,遜之誤曵其袖,良玉引佩刀,自斷之其。嚴肅若是。」

『静志居詩話』巻一

野紀に「秦良玉には男妾が数十人いた」と書かれているが、これは䕫州出身の李長祥がデタラメであると力説している。曰く「四川巡撫の邵捷春が緜州知州の陸遜之に軍営を巡察させたとき、秦良玉は冠を着け帯を結び、礼装をもって彼を迎えた。宴を設け盃を重ねつつ軍事について論じていたが、陸遜之が誤って彼女の袖を引いてしまった。すると良玉は佩刀を引き寄せ、彼が触れた袖を断ち切ったのである。男女の別を守ること、このように厳格であったのだ」と。

 要するに「夫以外の男に触れられた所を断ち切るようなケッペキな彼女が、男妾を囲うようなフケツなことするわけないでしょ」と言いたいらしい。どうでもいいが、当時彼女は六十を超えており、初陣以来四十年以上を軍人として男と過ごしてきたのだから、今更こんなねんねえ、、、、みたいなことをされると却って気持が悪いのである。あと「斷袖」というと普通は男色を聯想するのだが……。

 当時の文人で、もうすこし気のきいた反論をする人はいなかっただろうか、と探してみたが、あとはだいたい上の「斷袖」の話を引いて、「張献忠と戦った忠君愛国の名将がそんなことをするはずがない」とか「いかに彼女に優れた才があるとは言え、南朝宋の故事をさらっと引けるわけがないだろう」というものばかりであった。

 前者のアタマの硬さはなんなんだろう。「アイドルがうんこするはずがないだろ」とネタで言うのは別にいいが、知識人然として真顔で言われると戸惑うほかない。ただ、さすがにこの反論には呆れた人もいたらしく、汪師韓なんかは「秦良玉は当時六十超えやぞ?軍中にあること四十年の将軍が何をいまさら男を避けて袖を切る必要があるんや?そもそも、将帥として軍を率いる者の傍らに男が一人もいないなんてことあるわけ無いやろ。ちょっと男がいたからってすぐに男妾とか中傷すんな!」と述べている。うんうん。このジイさんは話がわかる。
袁枚『随園随筆』「良玉征播乃萬曆二十七年事,陸遜之按營乃崇禎十三年事,相隔四十二年。征播時良玉年必在二十左右,又四十年則已六十餘歲人矣,何嫌之避而必以刀斷袖為!帥領兵豈得旁無男子?如《二申野錄》、《蠻司合志》等書,誣以男妾,豈所謂知人論世者乎!」

 なお、後者について。この手の会話というのは、後世の人が勝手に作るものである。手軽に録音できる電子機器も何もない時代だから、皇帝ならばともかく、そのへんの人が何を言ったかなど分かるはずもないのだ。故事を踏まえた会話なんてものは、歴史家が自分の知識をもとに勝手に創作するのである。それを知っていれば、「故事をさらっと引いて答えることができたからエライ」も「そんなことできるはずがない」も無意味であることは自明である。


 私自身は「秦良玉は周りに男を侍らせていた」と聞いても大した感想はない。あ、そうなんだ。で?それが何か問題?

 秦良玉が活動した中国西南部では、ほかにも多くの女土司・女性首長がいた。『明史』には劉淑貞、奢香といった女土司が記録されているし、叛亂指導者として『元史』には蛇節という女性がいる。なお、彝族(羅羅)については、元の李京が『雲南志略』のなかで、その婚姻風俗をこのように書いている。

酋長無繼嗣,則立妻女為酋長,婦女無女侍,惟男子十數奉左右,皆私之。『雲南志略』諸夷風俗

酋長に跡継ぎがいなければ、妻または娘を酋長に立てた。その時は、女性ではなく、男子十数人を左右に侍らせ、これを全て我がものとした。

 この記述から秦良玉が実際に一妻多夫的な婚姻慣行を営んでいたと結論することはできないが、西南地方の女首長が男子十数人を左右に侍らせるという話型が、秦良玉以前から漢文の民族誌に存在していたことは重要である。秦良玉の「男妾」も、実際の風俗の記録というより、この既成の女酋像を彼女に重ねて作られた噂だったのかもしれない。まあどっちでもいいが、中傷目的で「彼女は美少年をまわりに侍らせていたんだぞ」と言うのも、「いや明の忠臣がそんなことをするはずがない」と弁護するのも、どちらもおかしな議論だなぁ、と思う。これだから面白いんだ、人間ってヤツは、くらいでいいではないか。

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