レファ協データベース未解決事例あれこれ

 レファレンス協同データベース(以下レファ協)というものがある。

 国立国会図書館が主宰し作成したレファレンス事例のデータベースであり、私もたまに調べ物の際に検索することがある。たいへんよいことに、未解決事例についても待考として調べ得た限りの情報が掲載されている。そういった姿勢は大変よいもので、私も気が向いたときに未解決事例のなかで答えられそうなものがないか見ることがある。以下はそのうちのいくつかのメモである。

目次

調査完了・連絡済

「富久者有智 遠仁者疎道」

 富岡鉄斎や落語の話が回答としてあげられているが、ちょっとどうかと思った。読みが「ふくはうち おにはそと」なのだから、和語に適当に漢字を当てはめた遊びなんだな、と気がつけば、そういう萬葉假名で遊びそうな人間、江戸時代の国文学者を調査の範疇に入れるべきだと推測できるのではないか。

 屋代弘賢は『群書類従』の編集に協力したことなどで有名だが、ある正月、周囲に「富久者有智、遠仁者疎德」という書を配ったことがあるらしく、そのことに対する同時代人による批判と(第三者による)反論が文字として残っている。

 まず小説家主人(こごとのやあるじ、川崎重恭)による批判。

昨年。富久者有智。遠仁者疎德の十字をくばられしなどは。世人囂々と譏るところにて。義において熟せざる句なり。もし富久しき者。みな智あらば。荀子がいはゆる。志意脩則驕富貴。道義重則輕王公也などヽいふ論もなく。魏の河間王や高陽王や。唐の王元寶などは。智の所為といふべきか。この句を逆にして。智有る者は久しく富むとよまば。端木賜が貨殖。范蠡が踪をかくせる。みな智者の富なるにかなふべし。

小説家主人「志りうこと」 / 『百家説林 正編上』吉川弘文館、p1256

このあと「しかもそれを唐紙に書くとはなにごとだ!」といった批判が続くが省略する。

 これに対する小林元儁の反論が下記。

富久者有智。遠仁者疎德の十字をくばられしなどは。世人囂々と譏る處にて。義において熟せざる句なり云々とある。これもたがへり。これは字義を用ひたるにはあらず。假名なり。ことに弘賢が造語にてはなし。もとは何人の作にか。先年沼田何某よりたのまれて書かれしなり。その草案には、不苦者有智とありしを、不苦の二字を取りかへてかかれしまでの事なるよし。假名の法もしらずして字義を論ずるなど、いといとつたなきなり。

小林元儁「金剛談」 / 『百家説林 正編下』吉川弘文館、p914

こういった造語は当時から存在したこと、そして既に誰の作かわからなくなっていたこと、また最初は「不苦者有智」であったのを屋代が「富久者有智」と改めたということがわかる。

 もっともその辺の細かい事情は考慮されず、一般には屋代弘賢が全て作ったものと考えられていたようである。例をいくつか示す。

○屋代翁所示
福は内、鬼は外の文字を萬葉に書きて、其儀となせる事左の如し。
 富久者有智、遠仁者疎德。

大郷良則「道聴塗説」 / 『鼠璞十種』国書刊行会(1916年)所収、p141

屋代弘賢はある年。鬼は外福は内といふ詞を。意義ある萬葉假名に綴り。之を印刻し諸友に頒ちしよし。其の文字左のごとし。
  遠仁者疎德   富久者有智
即ち仁に遠ざかる者は徳に疎く。富久しき者は智有りの義なり。亦文壇の一佳話といふべし。

『風俗畫報』第三百九十三號(明治四十二年二月五日發行)、p4

 以上、屋代弘賢について記載を加えた方がよいのではないか、と連絡した。


戦後すぐの水戸の地図

 University of Texas のウェブサイトに進駐軍が作製した地図がある。水戸も掲載されており、そこで向井町の位置を確認できる。


「青山如故人 江水似美酒 今日重相逢 把酒対良友」

 この詩は清の文點のもの。文點の字は與也。江南呉縣の人。『清詩別裁集』巻七にも掲載されており、これで全て。題は「渡江」。詩意、書き下しは簡野道明『和漢名詩類選評釈』(明治書院、1915年)のp382にあり。国立国会図書館デジタルコレクションからも参照可能。


「一誠勝百術」

 レファレンスの方は十分な調査をして橘良基までたどりついているのだが、「『百術不如一淸』が誰の言葉かは書いていない」で終了にしてしまっていた。

 橘良基についてさらに調べたらええんちゃうかな、となんとはなしに古事類苑データベースに「橘 良基」と入れて検索したところ、人部十九「廉潔」に『(日本)三代實錄』を引いて「雖有百術不如一淸」がそのまま出てきたのだった。おわり。

『日本三代實錄』巻五十 / 『国史大系』第四巻所収(国立国会図書館デジタルコレクションより)

(引用者注:仁和三年六月)八日庚戌、従四位下・信濃守の橘朝臣良基が亡くなった。(中略)良基は子や孫に身を清く保つよう諭した。彼には男の子供が十一人おり、六男が橘在公である。在公がかつて國を治める道について尋ねたとき、良基は「百術ありといへども、一淸に如かず」と答えた。その清廉潔白はかくのごとし。


金毘羅船渠株式会社

 こういうのは官報を見るのが一番である。1902年の官報に登記の記録がある。そして1909年の『日本政治年鑑』、1910年の『香川縣史 第三編下』にも社名が見えるので、その頃までは存続したらしい。以降のことはわからない。


江戸時代の包丁のさばき方「才形」とは

 これはすぐに分かった。「賽形」である。要するに賽の目切りである。

 左は石井治兵衛『日本料理法大全』博文館(1898年発行)の1542ページから。

 ただ案外と江戸時代の本でわかりやすいものがなかったので、しかたなく明治期の上記書にあるよ、と連絡した。


「那翁」はナポレオンか

 「那翁」の意味は不明という返答だったが、一目見てこれは「ナポレヲン」ちゃうん、と思った。「ナポレヲン」は明治期によく使われた当字のはずだが、字典に載っていないらしいのは少し意外である。

 というわけで用例を揃えて送ったのだが、肝心の阿部磯雄の日記なんて参照できるところはないだろう、と何も調べなかったのでとんだ失敗をした。同志社のレファレンス担当の方が丁寧に教えてくださったのだが、実は十年以上前に翻刻されており、そちらでは既に「ナポレオン」となっていた由。

 また原文もオンラインで参照可能であると教えてくださった。うーん今はこんなものまでインターネット上に公開されているんだな。すごい!

 というわけで手書きの方をみてみると、なるほどこれは「勃」ではなく「勒」に読めるが、断定するにはちょっと勇気が要る。

 同志社の方でもこのレファレンスの詳しい事情は不明だそうだが(十年以上前だしそりゃそうだ)、おそらく原本の翻刻にあたってこれをなんと読むか図書館に相談があり、結果は「不明」だったものの、翻刻者の誰かの判断で「ナポレオン」とルビが打たれたのであろう、ということであった。


「罪と罰とその作者」の掲載誌

 著者の仲田勝之助が明治四十年代にどういったことをしていたか調べると、同級生若山牧水をいろいろ手伝っていたことがわかった。若山牧水は「北斗」や「創作」といった雑誌を当時主宰していたから、そのへんに載っているかと思い目次を見てみたが載っていない。ふむ、違ったか。

 しかし、行き場の無くなった原稿を友達の誼で載せてもらうとかありそうだけどなぁ……と諦め悪く仲田の記事をいちいち繰ってみたところ、なんとまぁヘンなところにあった。

 『創作』八月号(創作社、1911年2巻8号)のp100に、仲田勝之助による「庭園畫家サンチャゴ ルシニョル」という記事が掲載されており、途中のp103から同作者による「『罪と罰』と其作者」という記事が続いていたのである。内容的な連続性が全くなく、いきなり挿入したような感じになっている。

 また、ついでに「創刊されるはずだった雑誌」もわかった。それはそらく『樹木と果實』で、石川啄木と土岐哀果が主編集であった。明治四十四年二月(その後繰り延べになった)に創刊の予定であったが、直前に啄木が腹膜炎で倒れ、一年あまりの闘病の末亡くなったために日の目を見なかった雑誌である。『創作』1911年2巻4号の巻末に広告が掲載されており、そこにちゃんと「罪と罰と其作者 仲田勝之助」と載っていたのである。なお、他の原稿についても(おそらく同一人物による)掲載誌調査のレファレンスがあるようだ。おそらく啄木の研究者であろう。ただどれもすぐ分かるようなものではなさそうである。


「つぶて発句」

 『故事俗信ことわざ大辞典』第二版に「飛礫つぶて発句は誰もする」が載っており、「『飛礫発句』は、連歌とは関係のない単独の発句」と説明されていた。連絡したところ、その日のうちに「なおしたよ!」と返事があった。大阪人同士は話が早くっていいね。


「讃岐の三惚れ」

 この「三惚」をはじめに言い出したのは江戸時代の医師・水野澤齋という人で、『養生辨』巻之下に「三惚之辨」として紹介している。抜粋すると

○三惚とは三ツの惚ものといふことにて第一は我が住所に惚ること也(略)
○第二には家業に惚ること也(略)
○第三には夫妻に惚ること也(略)

『養生辨』巻之下 / 『日本衛生文庫 第3輯』所収(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 現行の用法と同じで、住所、仕事、女房に惚れるのが養生の秘訣である、といった内容である。水野は伊予の人だが生まれ故郷を嫌って京阪に出たらしく、「故郷」ではなくあくまで「住所(自分が今いるところ)」と言っているのがおもしろい。まあまあそういうもんだよな。

 以降この言葉は「三惚主義」*や「三戀主義」**のように多少字句はかわりつつも、いずれも土地と仕事と配偶者に惚れることが肝要とする点では一貫しており、今でも讃岐に限らず使われているようである。以上連絡済。
* 東川徳治『博士梅謙次郎』法政大学(1917年)271ページ
** 天野藤男『農村と娯楽』洛陽堂(1913年)285ページ

 さて、図書館への連絡では触れなかったが、ちょっと変わり種の「三惚」というものもある。「滑稽新聞」1906年2月5日(第百八號)に「戀愛成効秘訣の三惚」というものが紹介されている。これは何かというと、女が男への戀愛を成功させるための三原則である。ひとつは「男の心に惚れること」、ふたつは「男の容貌に惚れること」、みっつは「男が學修して居る學科に惚れること」とある。前二者はまあわかるが、最後のひとつは今となってはちょっと不思議――でもないか?

「法律なんか屁理屈ばかり並べ立てるから嫌いよ、矢張り優しく高き理想を歌ひ星菫に心をよせる文學の方が好いワ」と云ふような了簡柄の女は決して成効せぬものである

ふーむ。この頃は法学部よりも文学部の方がモテたらしいですよ?


「麗日発光華」

 なんかおめでたい句だなぁ……というのが第一印象。

 「うららかな日差しに全てのものが光りかがやく」なんて聞くと、これ春聯の文句じゃないの、と思ったので、「門聯」「春聯」「桃符」のキーワードとともに、字句を適当に刪改して調べると、あっさり出てきた。

 「東京人類學會雜誌」1907年22巻251号に掲載された「臺灣に於ける漢族の家屋の搆造及び家屋内の装置」内に、

春風增氣色 麗日發光輝

という春聯が紹介されていたのである。簡体字になおして検索すると現代でも使われていることがわかる。「麗日發光」は「麗日發光」と一字違いであり、実際にこう書いたものがあったのだろう。また「春風增氣色」が対であったこともわかる。

 では孟浩然との関わりは何か。『全唐詩』巻百六十を繰ってみると、こんな詩があった。

臘月八日於剡縣石城寺禮拜

石壁開金像,香山倚鐵圍。
下生彌勒見,回向一心歸。
竹柏禪庭古,樓臺世界稀。
夕嵐增氣色,餘照發光輝。
講席邀談柄,泉堂施浴衣。
願承功德水,從此濯塵機。

 おそらく「夕嵐增氣色 餘照發光輝」が春聯にあわせて「春風增氣色 麗日發光輝」と(何者かによって)改変され、それがそのまま孟浩然によるものとして通行するようになったんじゃないかなぁ、と思う。しらんけど。

 知ったことではないが、書道関係は出所の怪しいカンブンが大好きなのはなぜだろう。たとえば「澄心耳聴天聲」が蘇軾の作なんてのは一目見てありえないことである。「心耳を澄まして天聲を聽く」なんてのは日本人の、そして宗教家の発想である。


Petienongan

 さっぱり分からなかったが、Google検索がPecenonganを代替ワードとして提案したのが気になった。Pecenonganとはジャカルタのストリートの名前らしい。

 うーん。となるとPetienonganはその旧称とかなにかだろうか。ジャカルタはオランダ植民地時代バタヴィアという名で、日本軍の占領とともに改称したから、それに追随してオランダ語からインドネシア語に変更された地名のひとつだろうか。

 私はオランダ語はさっぱりなのだが、この手の相談で転記する際に特に交換されやすい綴りは i と j である。こころみに “Petjenongan” で調査するとやはりバタヴィア(ジャカルタの旧称)のストリート名だという記載があった。

 次は地図で確認する。海外のアンティーク地図サイトはたいてい有料(あたりまえ)なので、WikiMedia Commonsで Batavia old maps などと入れて調べるのが一番お手軽である。

 というわけで釣ってきた1914年の古地図でPecenonganストリートがどうなっていたか調べてみる。

あたり。ただ Patjenongan という綴りである。いろいろ文書の方を調べてみると、Petjenongan/Patjenongan どちらもある。どっちでもええんかな?

 地図の絵合わせだけでは不安なので、Gazetteer of Indonesia: names approved by the United States Board on Geographic Names. で確認したところ、Petjenonganは“see Pecenongan”となっており、同一とされていた。一件落着。


鳥飼道節

 富士川游が彼の略歴を書いている(中外醫事新報、1917年)。山崎正董 纂著『肥後醫育史 補遺』古賀十二郎『西洋医術伝来史』にも彼の名が見える。


「疲れたら休め。彼らもそう遠くへは行くまい」の出典

 ツルゲーネフの Переписка (英題 A Correspondence)という短篇小説が出典。散文詩ではない。1855, 6年ごろの作。

 該当部は終段 (XV) で主人公が死ぬ場面である。原文と英訳を示す。

помните: жизнь только того не обманет, кто не размышляет о ней и, ничего от неё не требует, принимает спокойно её немногие дары и спокойно пользуется ими. Идите вперёд, пока можете, а подкосятся ноги, сядьте близ дороги да глядите на прохожих без досады и зависти: ведь и они недалеко уйдут!

remember life deceives all but him who does not reflect upon her, and, demanding nothing of her, accepts serenely her few gifts and serenely makes the most of them. Go forward while you can. But if your strength fails you, sit by the wayside and watch those that pass by without anger or envy. They, too, have not far to go.

なぜかロシア語はフォントが間延びして表示されるなぁ……

 明治大正期に「手紙」という題で訳されたようだ。

人生は、たゞ人生の事を思慮せず、面して人生より何物をも要求せずして、安んじて人生が附與する僅少の賜物を受け、安んじてその賜物を利用する人を欺かない。汝は出來るだけ前に進め、併し足が疲れたなら路傍に坐つて、悲しむことなく、また猜むことなく、通行者を眺めるがよからう。彼等も遠くは行くまい!

昇曙夢『ツルゲーニエフ』實業日本社、1914年、p304-305

 全体の訳はおそらくどこかの全集に載っているだろう。原題と成立年、該当箇所まで示したのだから十分だろう。


調査は終了したが未連絡

 レファ協でなんとかならないかと思うのが、事例によって連絡先がばらばらなことである。

 メールアドレスが書いてあると一番楽なのだが、たいていは図書館のウェブサイトに飛んで問い合せフォームを探さなければならない。最悪なケースになると電話番號しか見つからないことがある。こうなるとお手上げである。

 こういったデータベースは作って終わりではなく、情報提供により適宜アップデートするべきなのだが、その作業を個々の図書館に任せきりにしている点にレファ協の問題がある。

 おそらく解決・未解決にかかわらず「この回答はちょっとどうか」と思った人はいくらもいるだろう。しかしその思いを伝えるにはかなり煩瑣な作業が必要である。そしてそれを乗り越えて連絡したところで私の経験上何らかの返答があるのは半数程度で、あとはなしのつぶてである。そういうことが何度も続くと、「まあ図書館の中の人の仕事を増やしてもしかたない」と思ってもう何も言わなくなる。私ももうやめてしまった。

 今回メモが残っていたものについていくつか下に書くが、こんなものは「いやぁ違うだろう」と思ったものの3分の1にも満たない。あとは「まあそう思わはるんやったらそれでええんちゃう」で終わりである。

臓器番号?

 おそらくICD-O (International Classification of Diseases for Oncology) の site codes のことを言っているのだろう。たとえば前立腺は C61.9, 胎盤は C58.9 など。


昭和24年に看護師が医学部3年次に編入できるように法令で決定?

 前提として、看護師と医師の教育内容は大きく異なる。看護師に追加で数年教育を施せば医師として働くことができる、などということはない。しかしその割に「昭和24年」「医学部3年次に編入」と具体的な数字が出ているのが妙である。

 これはおそらく質問者の勘違いで、正しくは「看護師が」ではなく「歯科医師が」で、「医学部」ではなく「医学専門部」だろう。

 日中戦争から太平洋戦争へと続く一連の戦時体制のもと、深刻な医師不足への対策としてさまざまな施策が講じられた。ひとつに1944年の編入科の設置がある。これは東京医学歯学専門学校の附属医学専門部(四年制)三年次に歯科医師の編入を許可するものである。最後の二期生が卒業したのが1948年、戦後の方針転換で一年間のインターンが科されたため、編入科の卒業生は1949年の国家試験を受けることになった。おそらくこの辺の話がこんがらがったのだろうと思われる。


川勝隆儀

 上に足すことはほとんどないが、会計検査院時代は第三課(大蔵省所管)所属であったようである(『職員録』1908, 1909年)。1905年従七位に敍され、勲八等瑞寶章を受けている。

 棚倉県が設置されたのも廃されたのも明治四年である。川勝が安政三年の生まれだとすると、当時数え十六歳ということになる。上掲文によれば明治四年には藩生であったと書かれているし、棚倉県の大参事というのは別人のことではないだろうか。


「冬来たりなば春遠からじ」を最初にこう訳したのは誰か

 回答では加藤正治郎、1955年の『シェリー詩集 1』とされているが、不適切である。戦前に「冬來りなば」という映画が評判になったことを知っていれば、少なくとも戦前だと見当がつくはずである。

 左は1924年9月の『キネマ旬報』(170號)、右は1924年7月の『女性改造』第三巻第七號。

 まずハッチンソン(ハッチンスン)の “If Winter comes” という小説があった。タイトルはシェリーの詩から採っている。これを木村毅が翻訳したとき、冒頭にこの詩の一節を掲げ、下のように訳した。

O Wind,
If Winter comes, Can Spring be far behind?
— Shelly

あゝ、かぜよ。
ふゆなば、春遠はるとほからじ
— シエリー

 最初は「ふゆきたりなば」ではなく「ふゆなば」であったこともわかる。

 そしてこの小説を原作とする映画 “IF WINTER COMES” が本邦で公開されたとき、その邦題が「ふゆきたりなば」とされ、以降これが詩の訳としても通行するようになった、というわけである。1925年7月に世界文藝映画傑作集(大槻憲二編)の第四編として『冬來りなば』(文藝日本社)が出版されたらしいから、「冬来たりなば春遠からじ」とひと続きになったのはそれが初めてではないかと思う(入手不能のため未確認)。


シナルリチョウ

 日本名の初出は不明だが、北隆館の『日本動物図鑑』1949年版には掲載されている。

内田清之助. 日本動物図鑑. 東京. 北隆館. 1949年. p122

 「シナルリチョウ(しなるりてう)」の学名は Myiophoneus coeruleus coeruleus (Myophonus caeruleus caeruleus)。オオルリの亜種で、中国の南は広東省から北は秦嶺山脈や河北省・山西省まで分布する。

 命名者は Giovanni Antonio Scopoli で初出は1786年である。当初は Gracula caerula.

Deliciae florae et faunae Insubricae. Pt. 2, p. 88, 1786

 このシナルリチョウは「ルリチョウ」の語句説明の際にわざわざ挙げねばならないような種ではない。この程度の検証もせず版を重ねているあたり、手に取ったことはないが『広辞苑』とやらは大した辞書でないことがよくわかる。


「釣った魚に餌はやらない」 はいつ頃誰が言った言葉か

 この質問のように「俗諺の起源を明確にせよ」と求めるレファレンスが多いようだが、そんなものは不可能である。多少なりとも読み書きをしたことがあれば、ひとつひとつの言葉やことわざで「誰がいつ作った」と判明しているものがどれだけあるか知っていようものだ。「調べれば分かるはずだ」と考えること自体が誤りなのある。レファレンス係の人も、その辺の辞書に載っていなければ「分かりません」と返答して良いだろう。要求が過大なのである。そもそもレファレンスサービスは調査代行業ではない。調べる気もない、探究の過程を楽しむこともない、ただ口を開けて待つ魚に餌を与えることほど空しいことはない。

『修養全集』第六巻(大日本雄弁会講談社、1929)789ページ

 ただすこしこの項目の回答に注釈を加えると、まず「昭和50年代のはじめには用いられていた」というのはあたりまえである。戦前から既にあったのだから。

 一例を左に示す。ちなみにこの項目を書いたのは田中比左良である。では彼がこの言葉の発明者かと言えばそうではないだろう。

 そもそも言葉が生まれるにあたっては必ず相応の時代背景がある。局所的な知識だけを得ても何の意味もないのである。たとえば「釣った魚に餌をやる」という字の並びだけを探すならば、江戸時代の川路聖謨の日記にそれを見ることができる。しかしこの「釣魚に餌するかことき」が現代の「釣った魚に餌をやる」の意ではないことは、一読すれば誰しも分かることである。

 女性を魚に喩え、それを娶ることを「魚を釣る」と認知することは、おそらく本邦では明治以降の産なのだろう。一方で中国の場合、女性を魚に喩えること自体は珍しいものではなく、結婚したあと配偶者を「釣った魚」とする意識も古代からあった。このへんは『中国神話』*所収の「説魚」が詳しいので繰り返さない。中国の影響を強く受けた本邦でそういう意識が根付かなかった――少なくとも主流にはならなかったのはおもしろいことである。
* 聞一多 中島みどり訳注『中国神話』平凡社、東洋文庫497、1989年2月


「?州の張琦の神怪鏡」

 「?州」とは?と『伽婢子』を確認したところ「べん州」だった。

 「汴州の張琦」ならば「古鏡記」ではないか。「古鏡記」は伝奇小説のはしりとして非常に有名な作品で、「あやしい鏡が験を成す話」といえば一番に挙げられなければならない。『伽婢子』の注釈書が軒並み「『汴州の張琦』は不詳」としているのはまともな知識が無いからである。

遂出於宋汴。汴主人張琦家有女子患。入夜,哀痛之聲,實不堪忍。勣問其故,病來已經年歲,白日即安,夜常如此。勣停一宿,及聞女子聲,遂開鏡照之。痛者曰:「戴冠郎被殺。」其病者床下,有大雄雞死矣,乃是主人七八歲老雞也。

『太平廣記』巻二百三十

そして(王勣は)宋・汴に旅に出た。汴州の(宿屋の)主人、張琦の家には娘がいたが、病気のため夜になると心から哀しそうな声で泣き叫び、聞くに忍びないほどであった。王勣がわけを尋ねると、彼女が病気になってから既に一年、昼間は何ともないが、夜は毎夜このようだということであった。そこで王勣はこの宿に一泊し、娘の声を聞くとすぐ鏡を取り出して彼女を照らした。すると病人は「戴冠郎が殺された!」と叫んだ。彼女の寝台の下には大きな雄鶏が死んでおり、それは主人が飼っている七八歳になる老鶏であった。

 ただし「汴州の張」は「汴州の張」に作る本もある。

 神怪鏡(神恠鏡)は何かわからない。ここで出てくる鏡の精は自ら「紫珍」と名乗っており、「神怪鏡」ではない。「楊貴妃の明王鏡」の「明王鏡」も謡曲の創作であるし、「神怪鏡」も同じ伝であろう。


ビスマルクと「賢者は歴史から学び、愚者は自分の経験から学ぶ」

 海外では「自らの失敗から学ぶのは愚者だけだ。賢者は他人の失敗から学ぶ」ということばになっており、歴史云々を絡めるのは我が国だけである。

Only a fool learns from his own mistakes. The wise man learns from the mistakes of others.

 誰が「歴史」に書き換えたのかはわからない。まあこういった俗流処世術が好きな人には歴史云々を絡めた方が受けがいいのだろう。

 ビスマルクの言とされているならドイツ語の文献を調べるべきなのだが、どうせこんなものは仮託である。それに私のドイツ語能力なんかはとっくの昔に吹っ飛んだので、英語で済ませることにする。

 19世紀の頃はビスマルクのものとはされず、一般的な箴言として扱われていることが多い。

Wise men learn by the experience of others; fools learn only by their own.

The Christian Union. October 9, 1878

 むろんビスマルクの言とされていることもある。

Brownson’s quarterly review. 1875;3:39.

 しかしねぇ「愚者は経験に学ぶ」なんて発想はよくあるものである。たとえば、ホラティウスの叙事詩の注釈に、ホメロスの言葉として「彼は愚か者だ――そして愚か者は経験からしか学ばない」なんていうのを見たことがある。たとえばこれな。

Opera; the works of Horace: the odes on the basis of Anthon: the satires and epistles by McCaul: (Dublin : Cumming and Ferguson, 1846), p37

誰が「賢者は」以降を足したかは分からないが、古代ギリシャから近代まで、その時間は十分にあったろうと思われる。俗諺の起源なんてのはこんなものさ。


「飛奴」

 「飛奴」は唐の宰相張九齡が伝書バトのことをこう呼んだことから、ハトの別名のように使われる。五代のころの『開元天寶遺事』に記載がある。

張九齡少年時家養群鴿,毎與親知書信往來,只以書繫鴿足上,依所寄之處飛往投之。九齡目之爲「飛奴」。時人無不愛説。

『開元天寶遺事』巻一「傳書鴿」

私訳 張九齡は少年のとき家でたくさんのハトを飼っていた。(彼は後に仕官して長安にいたが、故郷の広東にいる)親族や知人に便りを送るときは、ハトの足に手紙を結びつけておくだけで、(ハトは広東にある自分の元の巣に帰るため)送り先に飛んで行き書を届けるのであった。九齡はこれを「飛奴」と名づけた。当時の人はみな好んでこの話をした。


「黄錫禧字子鴻」

 「黄」が姓、「錫禧」が名、「子鴻」が字。


「世説新語」で屏風について書かれている箇所を探している

 『世説新語』で「屏(屛)」の字は何度か使われているが、実際に屏風を指すのはひとつだけである。

滿奮畏風,在晉武帝坐;北窗作琉璃屛,實密似疎,奮有難色。帝笑之。奮荅曰:「臣猶呉牛,見月而喘。」

『世説新語』言語

滿奮は風が嫌いであったため、あるとき晉の武帝は(風よけに)北の窓にガラスの屏風をおかせた。風は通らないが向こう側が見えるので、滿奮は渋い顔をした。それを見て武帝が笑うと、滿奮は「私は呉の牛のように、月を見てさえ喘ぐのです(暑い地方の牛のように、月を見てさえ太陽を聯想してゼーゼーあえぐのです)」と言った。


「長春不老」

 難しく考えすぎではないか。「長春」とは常に春であることであり、「不老」はそのままである。要するにいつまでも若々しく老いることがない、の意である。一般的な言葉であり「~が出典」と探すような言葉ではない。用例をひとつ挙げるならば、たとえば『剪燈餘話』巻四「洞天花燭記」に「長春不老,永世齊芳。」(長春老いず、永世芳をひとしうせん)とある。


「神話」

 回答で「神話」の最も古い用例として挙げられているのは1896年のものだが、すくなくとも1892年の「哲学雑誌」7巻70号「美術の新生面」に「古代ノ神話」の語が四回出現している。また1893年出版の『教育ト宗教ノ衝突』(敬業社)や1894年の『耶蘇基督起原史論』(金川書店)にも見られる(特に後者では多数用いられている)。

 ”Myth” の訳語の変遷について辞書を調べると以下のようになる。

1869年 『和訳英辞書』「小説物ノ類」
(中略)
1885年 『大全英和辞書』「小説物ノ類」
1885年 『袖珍英和辞書』「小説物ノ類」
(中略)
1890年 『英和デスク辞書』「小説、虚?(判読困難)」
1890年 『英和辞書 : 新訳無双』「小説、虚?(判読困難)、神仙傳」
1892年 『雙解英和大辞典 再版』「神祇譚、神代誌;小説、想像ノ人物」
1894年 『英和新辞林』「1 傳説、物語、小説[荒唐ナル]. 2 ?誕?(判読困難)」
1897年 『英和字典』神話、神仙傳」
1902年 『新訳英和辞典』「1 神話、神怪譚、神代物語. 2 荒唐、荒誕、無稽. 3 神怪的人物、想像的人物. 4 神怪的物體、想像的物體」
1903年 『新英和辞林』「小説;昔噺;神仙傳」
1903年 『学生実用英和新辞典』「神祇譚、神代誌」
1904年 『最近英和辞林』「小説物ノ類」
1907年 『雙解英和大辞典 増訂二十五版』「神祇譚、神代誌;小説、想像ノ人物」
1909年 『学生英和小辞典 : 最新訳発音附』神話、神代誌」
1910年 『学生英和辞典』「1. 神話、傳説、神秘物語. 2. 作話. 3. 荒唐無稽の談」
1919年 『井上英和大辞典』「一 神話、神代物語、神仙談. 二 神怪人物、想像上のもの. 三 荒唐無稽の談、作り語、神怪談」
1929年 『新英和中辞典』神話;假想の人;神話的人物(事物)」
1929年 『新英和大辞典』神話、神代物語、神仙談;荒唐無稽の作話;神話的人物、神話的事物」

 上記を合わせると、「神話」という言葉がつくられ、”myth” の訳語としてあてられるようになったのは1890年前半だと思われる。ただすぐに定着したわけでもないようで、常に筆頭に上がってくるようになったのは明治末であるようだ。


「末は博士か大臣か」

 まず日本で初めて博士号が授与されたのは明治二十一年だから、それより後に生まれた言葉であることは確かである。用例は明治末から見られる。

津々浦々から東京の諸大官へのマラソン競走が始まり、先生は生徒に、親は息子に、明け暮れ、『偉い物になれ。出世をせい』。『末は博士か大臣か』とおだて上げ、靑年は西國立志篇やスマイルス自助傳やに讀み耽つた。
土田杏村『教育の革命時代』東京、中文館書店、1924年

現代の俚言にいふ「末は博士か大臣か」の調子で學に志す人もある。それも確に一面の眞理であらう。然し乍ら日蓮聖人の發心はそれらとは根本的に行き方を異にしてゐる。
里見岸雄『日蓮主義の新研究』東京、国柱産業書籍部、1919年、p36

藝が身を助ける程の不仕合せな中年者や、老人などの中にも、末は博士か大臣になり果せた人達より、ずつと物の分つた、ずつと人格の高い、従つてずつと尊い仕事をしてゐる人物があり得ることを、かたく信じて疑はないのです。
生田長江「學ぶと遊ぶと一にして二ならず」/ 中央公論 1917年、32巻、4號、p138

今日ツンツルテンの書生さんが、末は博士か大臣になることを空想して居る、もしくは想像して居るとする。
生田長江『文學入門』東京、新潮社、1907年、p40

末は日本博士か大臣かの流行した頃、鶯にも似たる彈聲を聞き四六九二と洒落れ、東雲告ぐると云はれて吃驚すとの車に揺られながら寄宿舎へ……。
上田菫舟「正月物語(承前)」/『新聲』東京、隆文館、1905年、103巻、p151

 最後の「日本博士」は見ない言葉だが、初の博士号が授与された年に『日本博士全傳』という本が出てわりと評判になったようだから、そのへんから来たのだろうか。

 「末は日本博士か大臣かの流行した頃」が1888~1905年のいつか具体的にはわからない。『新聞集成明治編年史』でも触れられていなかった。個人的な感触ではおそらく1905年ではないかと思われるが、暇があったら継続調査しよう。


元稹の「登龍門」という詩

 なぜ質問者は『元白詩箋証稿』を持っていったのだろう。探していたのは『全唐詩』巻三百九十九の「賦得魚登龍門」だろうね。十年以上前だからもういいか。


「権不十年」

「花に云々」は中国のママの時代のはやり言葉などをまとめた『通俗編』の一節から引いたものである。また「権不十年」は昔の朝鮮の古い格言に「権腐十年」という言葉があるが、”腐る”では表現がきつすぎるので、「不」という字に置きかえたものだ。

 まず『通俗篇』が成立したのは秦ではなく清。「花無十日紅」は『通俗篇』が初出ではなく、載ってすらいない。「花無十日紅 権不十年久」の対は後世の捏造。「久」は蛇足。「権腐十年」よりも「権不十年」の用例の方が古く、「腐」を「不」に置き換えたとする根拠はない。すべてが支離滅裂。おそらくNHK出版に校閲という部門はないんだろうな。

 質問者に罪はないので調べてみると、古いものとしては、隆熙三年(1909年)に發行された『言文』という辞書に「権不十年」がのっている。

池錫永『言文』廣學書舗、1909年6月23日発行

 ほか以下の本に用例がある。

權不十年嘲不三年 時節の來るまで忍耐せよとの意なり

朝鮮駐箚憲兵隊司令部『朝鮮社會考』文星社、朝鮮京城、1912年

權不十年勢不百年의​意니라。

『朝鮮文朝鮮』第八十五號、大正十三年十月十五日發行、附録p141

 「権勢は十年、人の嘲りも三年とは続かない」「権門は十年、勢家も百年とは続かない」といろいろなバリエーションがあったこともわかる。


二宮尊徳と「可愛ゆくば、五つ教えて三つ褒め、二つ叱ってよき人にせよ」

 結論から言えば両者は無関係である。

 明治大正期の用例を見てみたが、「道歌」「箴言」としているものはあるが、二宮尊徳の言葉としている文献はない。「教える – 褒める – 叱る」の割合にも揺れがあって、5:3:2ではなく7:5:3というものもある。七五三に引っ張られるあまり「教える」の比率が下がっているのがちょっとおかしい。

 この言葉を使っている文章は教育関係が多いのは当然として、やたら「教化」という単語が目につくなぁ、と思っていたら、報徳會の機関誌『斯民』にこんな記事があった。浜松の與進小學校では養生を尊ぶの一環として身体清潔を推奨しており、そのために特製の手拭いを生徒に持たせている。その手拭いは下図の左に示す如きものである。また家庭用にも教育的手拭いを配付しており、それは下図右のようなものである、として「かはゆくば五つをしへて三つほめ二つしかりてよきひとにせよ」が出てくる。

留助幸助「教訓に充ちたる與進小學校」斯民. 1906;7;26, 28

 言うまでもないが左の薪を背負った人物は尊徳である。そもそも報徳會とは尊徳の至誠勤譲の教えこそが「戦後経営」(ここでは日露戦争)における指導理念であるとした国民教化団体である。

 本文中では「而して其手拭の上部には頗る趣味深き、教訓的の道歌を記さる。歌に曰く」のみで、彼らでさえ尊徳のものとはしていない。しかし両者が結びつけられる素地は大いにあったものと思われる。


If I hear it, I forget it. If I see it, I remember it. If I do it, I understand it.

 用例を調査すると以下の如くである。

Three rules to evaluate this area: One, if I hear it, I forget it; two, if I see it, I remember; three, if I do it, I understand.
Current livestock industry problems: Hearing before the Subcommittee on Livestock, Dairy, and Poultry of the Committee on Agriculture, House of Representatives. 1981;97-V:p53.

At this time, I would like to inset in the RECORD Dr. Hale’s address:
THE HOSPITAL SCHOOL OF NURSING
“When I hear it, I forget it; when I see it, I remember it; when I do it, I know it.”
Congressional record. 1966;112:A3226.

Discusses the personality of the teacher, laboratory activities, and special projects. Quotes the Chinese proverb; “When I hear it, I forget it; when I see it, I remember it; when I do it, I know it.”
College teachers and college teaching. 1957;Suppl. v1.:p118.

The educational philosophy of John Dewey is certainly correct in stressing this generalization. So too is the Chinese adage:
When I hear it I forget it
When I see it I remember it
When I do it I know it

Public health reports. 1953;68:p877.

 1950年代は中国の格言とされていたようだ。時代が下るにつれてそれが忘れられたのだろうか。ただし欧米人の言う「もとは中国の諺」「Zenの言葉にある」とやらには根拠の無いものが多いので、鵜呑みにするのは危険である。

 If/when の違いこそあれ、ほぼ共通したセンテンスである。意味も「聞くだけでは忘れてしまうが、見れば覚え、行えば理解する」と同じである。”If I find it, I use it.”は後の人の蛇足と思われる。

 さて、この「聞くだけ < 見ること < 行うこと」の構造を持つ中国古典と言えば、やはり『荀子』儒效篇の下の部分であろう。

故聞之而不見,雖博必謬;見之而不知,雖識必妄;知之而不行,雖敦必困。

『荀子』儒效篇

私訳 (書き下し)故に之を聞きて見ざれば、博しと雖も必ず謬り、之を見て知らざれば、識ると雖も必ず妄なり、之を知りて行はざれば、敦しと雖も必ず困す。
(噛み砕いた訳)ゆえに、人の話を聞いただけで、自分で詳しく調べるといったことに努めなければ、ただ博く聞いたところで必ず誤りがある。また調べただけで真意を知ることに努めなければ、たとえ知識だけ多くても虚妄に陥ることになる。そして道理を究めたとしても実地に行わなければ、いかに研鑽したといえども、実際の場面になればあっという間に挫折してしまう。

 この部分は英語でどのように訳されたのだろうか。

 U of R にいたとき Rush Rhees Library で The works of Hsüntze という本を見ることができた。これは『荀子』の英訳で、1928年の出版である。該当部は以下の通り。

Not having learned it is not as good as having learned it; having learned it is not as good as having seen it carried out; having seen it is not as good as understanding it; understanding it is not as good as doing it.

Xunzi; translated by Homer Hasenpflug Dubs. The works of Hsüntze. London : Arthur Probsthain, 1928.

 意味としては “If (When) I hear it, …” と同じと言えるが、用いられている単語や構造は大きく異なる。この本以外に別訳があったりするのかと思ったが、どうもそういうことはなさそうだ。またこの原型から “If (When) I hear it, …” への変化過程と推測されるような用例がないか調べたが、発見できなかった。

 となると『荀子』ではない可能性を考えなければならない。

 他に似た言葉としては、『漢書』趙充國傳の「百聞不如一見」がある。ただこれだけでは「聞くだけ < 見ること < 行うこと」の左の不等号しか充たせない。

 もしかして後世の人が「百聞不如一見 百不如一」といった蛇足版を作り、それが欧米に渡ったのではないか、と考えたがそういう証拠もなさそうである。念のため「百聞不如一見」の20世紀初頭における訳例も見てみたが、”A hundred hearings are not equal to one seeing.” や “One seeing is worth a hundred tellings.” といった直訳調のものばかりで、”If (When) I hear it, …” ほど噛み砕いたものは見られない。したがって「百聞不如一見」蛇足版でもなさそうである。

 英語に堪能でジョークの好きな華人、たとえば林語堂とかが作ったものではないか、とチラと思ったが、どうも分からなさそうなので調査はここまでとする。


Toshi Mune とは?

“But there are others?” I suggest at last to the artist, who was Industriously covering as much of his expressive countenance as would lie under a tiny tea cup.

“Indeed, yes!” he replied eagerly. “I was myself artist for the Dai Nihon Kyo Iku, the principal educational journal of Japan. The Capital of Tokio is a splendid paper, like your New York Herald; the Toshi Mune — Morning Sun — another, and the National Gazette is the best of all. Then there is the Maru Maru Shinbun, like your Life, that is excellent for caricature, and many others. And there are the weekly and monthly magazines, devoted to art, poetry, science and foreign events and illustrated by the best artists of Japan.

San Francisco Call, Volume 87, Number 50, 19 January 1902

 この “the Toshi Mune — Morning Sun —” とは何か、という質問である。

 文脈的には日本の新聞の名前のようなので、当時の日本の新聞やアメリカ西海岸で發行されていた邦文紙をざっと眺めたが該当するものはなかった。

 文脈を無視して “Toshi Mune” という字だけを見れば人名のように思える。新聞の挿絵画家としてのインタビューであるから、同業者の名前だろうか。

 これはサンフランシスコの新聞の記事なのだが、サンフランシスコにあった Mark Hopkins Institute という美術館の年報を眺めると、記事の2年前の1900年まで同地に “Komatsu, Toshimune” という人がいたことがわかる。住所は “1102 Taylor Street” と記載されており、1901年から “Japan (abroad)” になっているから、島田雪湖が渡米する前に帰国したのであろう。また年報には彼の作品として “The Black Crow” が挙げられている。Free Library of Philadelphia のページには “Three Crows” というやはりカラスを描いた作品があり、その解説文に Komatsu は浮世絵師で Yoshimuni Arai の弟子だったとある。この Yoshimuni Arai は新井芳宗よしむね(歌川芳宗)だろうか。新井芳宗は明治期を代表する浮世絵師で、その弟子には確かに小松年宗という人がいた。

 新井芳宗は新聞や雑誌の挿絵を多く描いた。弟子の小松もまたそうであったかどうかはわからないが、かつてサンフランシスコに滞在した日本人絵師として記者が小松の名を挙げた可能性はある。むろん文脈からして彼の名がいきなり出てくるのはおかしい。ただ島田雪湖は英語が全く話せなかったと記事に書かれており、記者と雪湖の間に何らかの誤解があった可能性は残る。


「堯完白」とは誰か?

 聞いたことがないし、さっぱり見当もつかない。

 Google で検索しても、堯完白が「密処は風も透さず、疎処は馬をも走らすべし」と言ったという書道関係のサイトしか出てこない。

 「密處不使透風」「疏處可以走馬」と漢語に直して検索すると、『藝舟雙楫』に鄧石如という人が言ったと書かれている。そして鄧石如を『世界人名大辞典』で引くと「完白山人と号した」とある。ああこの人っぽいな。

 では「堯」とは何だろうか。キーボードを眺めると [G] [Y] と [T] は隣接しているから、「鄧完白」TOU… と打ったつもりが GYOU… になり「堯完白」が生まれたのではないだろうか。これは単なる推測だが、中国語で全く情報がなく、日本語のそのサイトしかヒットしないということは、その手のミスの可能性が高いと思われる。


「継続は力なり」は誰が言ったか

 回答の人が言うように大元は新渡戸稲造だろう。1911年の『修養』(實業之日本社)で彼は一章を割いて「継続」の重要性を力説している。ここの「継続」とは決心の継続の意。「継続は力」とは言っていないが、「~は力」という言葉は当時既にあったから(おそらく “… is power” の訳から)、おそらく彼の主張を紹介した人がつくったのだろうと思われる。


明治天皇の御製か?

 内容的にこれらが御製のはずがないではないか。

 「上見れば及ばぬことの多かりき傘着て暮らせ己が心に」は『遊歷雜記』に伊達政宗の歌とあるが、詠み人知らずの道歌とされることが多い。江戸時代からあるようだ(用例12)。

 「人の情けの盃を露ばかり受けしかども盃に向かえば変わる心かな」は似たものを謡曲「紅葉狩」で見かけたことがある。「人の情けの盃」と「盃に向へばかはる心かな」が離れすぎているから関係ないかもしれないが。


「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」

 歌川芳虎がこれに絵をつけたものが評判となり芳虎が処罰を受けた話は有名だが、この落首を詠んだのは誰か、という依頼らしい。落首の作者を明らかにせよと?そんなものがわかるはずがないではないか。

 ただ、いくつかの本では林梅林の作とされていることがある。たとえば以下のように。

○信長公が餅をつき、秀吉公が圓め、家康公が食ふ圖に(林梅林の作とも云ふ)

織田が搗き羽柴がこねし天下餅骨も折らずに食ふが德川

辻井亨『金言逸話珍説奇談はなしの庫』(東京、大日本圖書株式会社、1912年)p783

 この林梅林は毛利輝元の家臣とも、秀吉の茶坊主ともいうが、詳しいことはわからない。いずれにせよ彼が作者であるという証拠はない。


耕して天に至る?

 「耕到天是勤勉哉」「耕到空是貧哉」なんて言った中国人が本当にいたのか疑問である。言っては悪いが語彙に乏しい中国人である。後世の人がこれを李鴻章や孫文の発言にこじつけるのはほとんど中傷である。

 中国でも「陂田」「坡田」と言って棚田は珍しくない。普通に『史記』寧成傳やら欧陽脩の詩やらに出てくる。またバードが四川を訪れたとき、どんな小さな谷にも棚田が広がっていることに感心している。だから中国人が日本の棚田を見て「すごーい!たかーい!」と感歎するなんていうのには大いに違和感がある。架空の外國人に自分の考えを言わせるという、今も昔もよくある出羽守に過ぎないのだろう。そうやって創造された人物は所詮話者の教養を超えることはできないこともよくわかる。馬鹿馬鹿しいことさ。


虎は千里を行くか?

 「虎は千里行って千里還る」ということわざを私は知らなかったが、なにかおかしい気がする。虎は百里行くと戻ってこられないのではなかったか。

熊行數千里外,每宿必有窩,山中人謂之熊館。虎則百里之外,輒迷不返。

『五雑組』卷九 物部一

熊は数千里遠くに行っても、いつもねぐらがある。山に暮らす人はこれを「熊の館」と呼んでいる。(一方で)虎は百里遠くに行くと、迷ってしまい帰ってこない。

 たしか張師正も似たようなことを書いていたはずだが、書名を忘れてしまった。

 ちなみに『五雑組』のこの記述は『松屋筆記』でも引かれている。

虎は千里の藪を越すといふ俗語は誤 俗謡に虎は千里の藪さへこすが障子一重がまゝならぬ云々は寛政八年の流行なり此虎は千里の藪を行こと古よりいふ俗語なれど誤也 五雑爼九の巻物部一熊行數千里外每宿必有窩山中人謂之熊館虎則百里之外輒迷不返とあるにて知べし さては熊は千里の山さへ越すがと引直さまほし

『松屋筆記』巻八十

 おそらく「虎は千里を行く」は日本でできたのだろう。

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