亀になった母

 むかし「私は貝になりたい」というドラマが評判になったことがあった。

 当時の私は「私はカメになりたい」だと勘違いして「身を守りやすいからかねぇ」としばらく独り合点していたのだが、実際に見てえらい間違いをしていたことに気がついた。

 それにつけて思うのは、我が国では人が亀になる話が少ない、ということである。

 べつに定量的調査を行ったわけではないけれども、キツネや犬になる話よりも少ないとは言っても良さそうだ。人が亀に変わる話としては、わずかに『伏屋の物語』とそれをもとにした『秋月物語』くらいしか私は知らない。

 日本の場合、人間が動物に変わる話は多くが仏教の説話として見られる。つまり、人が動物になるのは、その悪業によって畜生道に墜ちるためと考えられたのだろう。一方で亀には長壽など正のイメージが古くからあったから、人が亀に変化するという話は矛盾するものと考えられ、話がほとんど作られなかったのではないかと思う。『伏屋の物語』『秋月物語』にしても、湖ないし海に落とされた娘を救うため母の霊が亀となってあらわれる、という合目的的なものである。


 ついでに、中国あちらさんにおける人亀変化へんげ譚の疑問点について備忘的に記しておこう。

漢靈帝時,江夏黃氏之母浴盤水中,久而不起,變為鼋矣。婢驚走告。比家人來,鼋轉入深淵。其後時時出見。初,浴,簪一銀釵,猶在其首。於是黃氏累世不敢食鼋肉。

『捜神記』巻十四

後漢の霊帝のときのこと。江夏の黄氏の母親がたらいの中で水浴びをしていた。水浴びを始めてだいぶ経ったにもかかわらず一向に立ち上がろうとしないため、下女が見ると、母親は亀に変わっていた。驚いた下女が走って家人に知らせたが、家人が駆けつけた時には、亀は深い淵に潜った後であった。亀はその後も時々家人の前に姿をあらわしたが、水浴びしていた時に身につけていた簪や銀の釵がそのまま頭にのっていた。それ以来というもの黄氏の人は代々亀の肉を食べなくなった。

 この後に清河の宋士宗、丹陽の宣騫の話が続く。亀になるのはいずれも彼らの母であり、彼女らは行水中に亀になり、そして例外なく家族の前から姿を消してしまう。

 当時の人々は、宋士宗に母親の葬儀を行い喪に服すようすすめたが、士宗は「母は姿形こそ変わってしまったが今でも生きているのだ」と葬儀を行わなかったという。先の「黄氏の人々は亀の肉を食べなくなった」という記述と併せ、これらの行動の背景には熊楠の言う「族霊」(トーテミズム)に通じる思想があるのかもしれない。

 それはいいとして、なぜ具体的な人名を明示して「彼の母が亀になった」なんていう話が作られたのだろうか。清河の宋士宗、丹陽の宣騫については詳らかにし得ないが、江夏黄氏と言えば黄香、黄瓊、黄琬らを輩出した名家である。なぜ係累も多そうな名家を名指ししてこのような話が作られたのか疑問である。

 「人が亀になる」というのは中国においては決して名誉な話ではない。たとえば、宋のころの『默記』に、生前の遺恨から実在の人間が死後亀になった話を作ったために、遺族からさんざんにとっちめられる話がある。

張君房字允方,安陸人,仕至祠部郎中、集賢校理,年八十余卒。平生喜著書,如《雲笈七簽》、《乘異記》、《麗情集》、《科名分定錄》、《潮說》、《脞說》之類甚眾。知杭州錢唐,多刊作大字版攜歸,印行於世。君房同年白稹者,有俊聲,亦以文名世,蚤卒,有文集行於世。常輕君房為人,君房心銜之。及作《乘異記》,載白稹死:其友行舟,夢稹曰:「我死罰為龜,汝來日舟過,當見我矣。」如其言,行舟見人聚觀,而烏鵲噪於岸,倚舟問之,乃漁人網得大龜。其友買而放之於江中。《乘異記》既行,君房一日朝退,出東華門外,忽有少年拽君房下馬奮擊,冠巾毀裂,流血被體,幾至委頓。乃白稹之子也,問:「吾父安有是事?必死而後已!」觀者為釋解,且令君房毀其版,君房哀祈如約,乃得去。

『默記』巻下

 張君房は字を允方といい、安陸縣の人である。官は祠部郎中、集賢校理に至り、八十歳あまりで亡くなった。日頃好んで書物を著し、『雲笈七簽』、『乘異記』、『麗情集』、『科名分定錄』、『潮說』、『脞說』などその数は甚だ多かった。杭州の知事として錢唐にいたとき、大字版を彫らせて持ち帰り、印刷して世間に通行させた。

 君房と同じ時に科挙に合格した人に白稹という人がいた。名声が高く文名は世に知れ渡っていたが、早く亡くなり、文集だけが残っていた。白稹は生前つねづね君房の人となりをバカにしていたため、君房は彼に対し含むところがあった。そして『乘異記』を書いたとき、「白稹死して」という話を載せた。その話はこうである。白稹の友人が舟で旅をしていたとき、夢の中に白稹があらわれ「私は死んで生前の罪によって亀になった。君が明日舟で通ったとき私の姿を見ることになるだろう」と言った。あくる日、舟をすすめると、見物人が集まり烏や鵲が岸で騒いでいる。舟から身を乗り出してわけを問うと、漁師が大亀を捕らえたということであった。友は(これは白稹に違いないと思い)金を出して漁師から亀を買い、江に放してやったのであった。

 『乘異記』が出版された後のある日、君房が朝廷から退出し東華門から外に出たとき、やにわに少年が飛び出してきたかと思うと、君房を馬から引きずり下ろし暴行を加えた。冠・巾は千切れ飛び、血塗れになり気を失わんばかりとなった。少年は白稹の子で「わが父が亀になったりするものか! 死ぬまでお前を許さないからな!」と叫んだ。周囲の者が二人を分け、君房に『乘異記』の木版を毀つように言った。君房は平身低頭してそれを約束し、ほうほうのていで逃れたのであった。

白稹の子の方は特に咎められた形跡が無いから、衆人にとっても君房のやったことは外道という意識があったのだろう。

 江夏黄氏と言えば、二十四孝の一人、黄香が有名である。彼は九歳のとき母を亡くしたが、母を思うあまり憔悴し、服喪を終えることができないほどであったため、郷里の人々はその至孝を称えたという『後漢書』文苑列傳。黄香の子は黄瓊といい、その孫・黄琬とともに三公に登った。霊帝の頃の江夏黄氏として名が残っているのは黄琬である。彼は父を早く亡くし、祖父の黄瓊に育てられたらしいが、もしかすると黄琬の母に実際に何らかの不行跡があってこのような話が作られたのかもしれない。もしくは江夏黄氏と言えば亡母思いの黄香が有名であるから、その正人君子ぶりをおちょくった中傷かもしれない。黄琬はのちに董卓暗殺計画に参加し成功するが、李傕ら残党の反撃に遭い獄死している。彼の死から江夏黄氏は徐々に没落していったのか、その後名のある人は出ていないようである。このことも後世の中傷者にとっては好都合だったのだろうと思われる。


おまけ:三国時代の黄氏

黄琬荊州江夏郡安陸県
黄忠荊州南陽郡
黄柱荊州南陽郡
黄承彦?(沔南名士)
黄蓋 荊州零陵郡泉陵県
黄権、黄邕、黄崇益州巴西郡閬中県
黄祖
黄元
黄襲
黄劭
黄皓
黄乱

黄祖
 江夏の黄氏と聞くと劉表配下の黄祖を思い出すが、黄祖がそのまま江夏黄氏の出ということはありえない。当時「三互法」により、本人の籍貫や姻戚関係にある地に赴任することは厳に禁じられていたからである。これは、統治に私心・私情を差し挟ませず、徒党を組むことのないように、との意図である。

 黄祖が史書に初めて姿を現すのは、初平二年(191年)、襄陽の戦いの劉表側指揮官としてである。黄祖は孫堅を迎撃し、敗れながらも彼を討取っている。その後、任命時期は不明だが江夏太守となり、以後常にその地位にあった。劉表がはじめて荊州刺史として赴任したのが中平六年(189年)であることを考えると、黄祖は、劉表による荊州支配のごく初期から一貫して重用されてきたと言ってよい。

 劉表の前任者である王叡は孫堅に攻められて自殺しており、当時刺史と言えどその地位は脆いものであった。劉表自身、兗州山陽郡高平県の人であり、元から荊州に権力地盤があったわけでないことは、赴任にあたって州治である漢寿を避け宜城に入城していることからも分かる。彼はその地で、南郡中廬県の蒯良・蒯越、襄陽県の蔡瑁と連絡を持ち、宜城を策源として荊州統治に乗り出したのである司馬彪『戦略』

 以上を併せると、黄祖は、蒯良・蒯越・蔡瑁らとともに、劉表の荊州支配に最初期から協力した地方の豪族ないし小軍閥、と考えるのが妥当だろう。当時、袁術は魯陽に兵を置いて南陽の兵を自軍に組みこんでおり、蘇代が長沙を、貝羽が華容県を抑えていたから、劉表の支配は当初南郡の一部にしか及んでいなかったと推測され、黄祖もまたその地に勢力を持っていたと考えられる。

黄承彦
 習鑿齒『襄陽記』によれば、彼は沔南地方の名士であり、爽やかな人柄で人脈も広かった、とされる。その妻は蔡瑁の父・蔡諷の長女であり、蔡諷の下の娘は劉表の室になっているから、黄承彦は劉表・蔡瑁と義理の兄弟の関係にあった。とすれば、初期から劉表に重用されてきた黄祖と黄承彦は何らかの関係があるのかもしれない。承彦とは字だろうから、黄承彦こそ黄祖その人である、なんてのも面白いが妄想の域である。

黄蓋
 黄蓋は荊州零陵郡泉陵の人。『三国志』黄蓋傳が引く『呉書』には南陽太守・黄子廉の子孫とある。黄子廉は清貧な人であったらしく、陶淵明「詠貧士」其七に彼を詠んだ詩がある。

  昔在黃子廉,彈冠佐名州。  昔黃子廉あり、冠を彈きて名州佐たり。
  一朝辭吏歸,清貧略難儔。  一朝 吏を辭して歸り、清貧ほぼたぐひ難し。
  年饑感仁妻,泣涕向我流。  年饑ゑて仁妻に感じ、涕泣我に向ひて流る。
  丈夫雖有志,固為兒女憂。  丈夫 志有りと雖も、固より兒女の為に憂ふ。
  惠孫一晤嘆,腆贈竟莫酬。  惠孫 一たび晤嘆し、腆贈てんぞう 竟に酬ゆる莫しと。
  誰云固窮難,邈哉此前修。  たれか云ふ固窮は難しと、邈たるかな此の前修。

むかし黄子廉という人がいた。彼は冠にたまった塵を弾き清めて(もともと貧しかったという意味)仕官し、名太守として鳴らしたが、いったん役を終えて帰ってくると、なんの財産もなく赤貧洗うがごとしというありさま。飢えに迫られながらも甲斐甲斐しく仕える妻の姿を目の当たりにしては、感じ入って彼は涙を流すのであった。大丈夫たる者、胸に大志を宿しているとは言え、わが子のことを思っては憂いに沈まざるを得ず、物をねだる孫に応えられぬ不甲斐なさに溜息をつき、友人からの厚意の贈物にも報いる術がない。このような極貧のうちにあっても、黄子廉は固窮の節をげることはしなかった。なんと立派な先人の姿であることか――

 黄子廉は宋代の『古今姓氏書辯證』に「黄香の孫は南陽太守の黄子廉であり、名を守亮という。零陵にも住んだ」とある『古今姓氏書辯證』「香孫南陽太守子廉,名守亮,又居零陵。」。ということは黄蓋は江夏黄氏の分枝ということになる。まあほんとかしらんけど。

黄忠、黄柱
 黄忠および劉備が漢中王になったときに光禄勳を拝命した黄柱は荊州南陽郡の人である『季漢輔臣贊』。黄忠がいつ劉表に仕えたのかはわからないが、中郎将に任じられ劉磐とともに前線の長沙の守備についていたことから、自前の部曲を有する有力な部将であったことは間違いない。

 黄蓋の先祖黄子廉は南陽太守だったから、もしかすると貧しさのあまり帰郷せず子孫の一部が土着した可能性もあるかもしれない。しかし、そうだという史料はないからこれも妄想である。なお、現代の『黄姓简史』なんていう怪しい本を見ると、「黄祖は黄忠の兄弟の孫(姪孫)、黄権は黄琬の子」という嘘くさいことが書かれている。しかも黄蓋が黄子廉の子孫でもなくなっている。とにかくこういう族譜は嘘八百が基本と思って見た方がよい……でもネタとしておもろいから載せておこう。

黄香―黄瓊―黄子廉
     ―黄閣―黄琬―黄権
     ―黄瓚―黄簪―黄智頃―黄忠
               ―黄賁―黄自溟―黄祖
  ―黄瓚―黄孚仁―黄蓋
  ―黄理―黄孚勇―黄承彥

黄権
 黄権は益州巴西郡閬中県の人。ふと思ったのだが、甘寧の先祖は荊州南陽郡から益州巴郡臨江県に移住したそうである『三国志』甘寧傳。南陽には黄忠や黄柱のように黄氏がいたから、黄権もまた南陽黄氏から分かれた可能性もあるのかなぁ、なんて妄想をしたが、何の裏づけもないことである。

黄元、黄襲、黄皓、黄劭、黄乱
 蜀漢には他に、劉備が病に倒れたことを知って叛いた漢嘉太守の黄元『三国志』先主傳、街亭の戦いで馬謖に連座した將軍黄襲『三国志』王平傳、ついでに黄皓がいるが、彼らの本貫はいずれも不明である。黄劭は黄巾賊の頭目の一人。汝南や潁川を荒らし回ったが、建安元年、討伐に来た曹操軍に夜襲をかけたところを于禁に逆襲され斬られた『三国志』于禁傳。黄乱は山越族。まあこのへんはいいか。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!
  • URLをコピーしました!
目次