泳ぐサシミと呉越同舟

 アメリカで生活を始めて数週間経ったある夜、妙な夢を見た。

 誰かに「塩サバと刺身を釣りに行こうぜ」と言われ、網をもとめて家のなかを探し回る夢である。夢などすぐに忘れるものだが、夢に出てきた何者かが言うに、その刺身は「ホッケ」のものだという。ホッケの刺身は、札幌の学会に行ったときに鮨屋で一度食べたきりだが、なぜそんなものが出てきたのだろう……と夢が醒めてから暗闇のなかしばし考えこんだことを覚えている。脂がのっているがしつこくない、それまでに食べたことのない味であった。

 さて、この夢だが、普通に考えて「まともな焼魚や刺身が食べたい」という思いのあらわれなのだろう。アメリカにもそれらを出す店はあったが、とかく高価で、日日の食事に充てることなどできようもなかった。

 刺身を縁に故郷のことを考える、とはまさに「蓴羹鱸膾じゅんこうろかい」だなぁ、と思わなくもない。――もっとも、私は食事以外はアメリカでの生活・仕事に満足していたから、張翰の想いとはだいぶ違うのだが。

翰因見秋風起,乃思吳中菰菜、蓴羹、鱸魚膾,曰:「人生貴得適志,何能羈宦數千里以要名爵乎!」遂命駕而歸。

『晋書』卷九十二 列傳第六十二

 張翰は呉郡の人。三国呉の高官・張儼の子として生まれた。斉王司馬冏に召し出されて大司馬東曹掾となった。あるとき秋風が吹くのを見て、故郷の菰菜(マコモ)、蓴羹(ジュンサイの吸物)、鱸魚膾(スズキの刺身)のことを思いだし、「人生あれやな。やっぱり好きなことをせんといかんわ。なんでとおう離れたこない所で官に就いて、名誉やら爵位やら求めなあかんのや」アホらし、と官を棄てて帰ったのである。まあ、故郷の味が恋しいとかは言訳で、司馬冏の政権が長く続かないことを見抜いて一足先に逃げ出した、というのが真相だろう。


 夢にまで見た「泳ぐ塩サバと刺身」についてちょっと考えてみよう。さすがに塩サバが泳ぐ話は知らないが、張華『博物志』には刺身が魚になる話がある。

吳王江行食鱠,有餘,棄於中流,化為魚。今魚中有名吳王鱠餘者,長數寸,大者如箸,猶有鱠形。

『博物志』卷三

呉王が揚子江に遊んだとき、鱠を食べた。鱠が餘ったので川の中に捨てたところ、魚に変わった。今「吳王鱠餘」と呼ばれる魚がこれである。長さは数寸、大きなものは箸くらいあり、まだ鱠の形をとどめている。

 この魚はシラウオと考えられている。「鱠餘(ナマスの残り)」「王餘(王の食べのこし)」と書かれることもある。「王余魚」はわが国ではカレイを指すが、本來はシラウオのことである。平安期の『倭名類聚鈔』『本草和名』から現代まで續く誤りであり、『和漢三才圖會』はじめいくつかの本が誤謬であると指摘しているが、いまだにこの誤解は正されていない。

 さて、張華は「呉王」としか書いていないが、干宝らは闔閭のこととしている。

江東名「餘腹」者:昔吳王闔閭江行,食膾,有餘,因棄中流,悉化為魚;今魚中有名「吳王膾餘」者,長數寸,大者如箸,猶有膾形。

『捜神記』巻十三

 なぜ呉王僚や夫差ではなく闔閭なのだろう、魚腸剣からの連想だろうか? などとアサッテのことを考えながら調べていると、『呉越春秋』闔閭内傳にこんな記述を見つけた。闔閭十年、呉軍が楚の都・郢を破り帰還したときのことである。

子胥歸吳,吳王聞三師將至,治魚為鱠,將到之日,過時不至,魚臭。須臾子胥至,闔閭出鱠而食,不知其臭,王復重為之,其味如故。吳人作鱠者,自闔閭之造也。

『呉越春秋』巻二

 すこし言葉を補って訳すとこうなる――

伍子胥は呉に帰還した。彼が帰って来ると聞いた呉王闔閭は魚を調理して鱠を作った。しかしその日になっても子胥が到着しないので、魚からは腐敗臭がするようになった。しばらくして子胥が到着すると、闔閭は鱠を出して子胥をもてなしたが、鱠からは臭いがしなかった。宴席の最中に闔閭はまた鱠を作ったが、その鱠の味は前の鱠と変わりなかった。これ以来、闔閭にならって呉の人は鱠を作るようになった。

 なるほど。ならば闔閭こそ鱠を食べる者にふさわしい。

 しかしこの『呉越春秋』の記載だが、鱠にしたからといって魚がそんなに保つものだろうか? という疑問が湧く。年代は下るが、元代の『居家必用事類全集』で鱠の作り方を調べてみることにしよう。

照鱠 魚不拘大小,鮮活為佳。去頭尾肚皮,薄切,攤白紙上晾片時,細切如絲。以蘿蔔細剁,布紐作汁,薑絲伴魚入碟,拌魚鱠入碟,飣作花樣。簇生香菜、芫荽,以芥辣醋澆。

『居家必用事類全集』

鱠の作り方:魚は大きいものでも小さいものでも構わないが、とにかく新鮮な魚がよい。頭、尾、ワタ、鱗を取除き、薄切りにし、紙の上にひろげて短時間水分をとってから、絲のように細く切る。蘿蔔(ダイコン)を細かくきざんで布で汁を絞り、薑絲(細切りにしたショウガ)とともに鱠とまぜる。そして生の香菜(シソ科の植物)と芫荽(コリアンダー)を散らし、芥辣醋(カラシと酢を混ぜたもの)をかける。

 なかなか手がこんでいる。この中では酢や紫蘇、コリアンダーあたりが腐敗の進行を遅らせているのだろう。もちろん闔閭の鱠と同じとは限らないが、酢鱠については古くから記録があるから、大きく間違ってはいるまい。あと関係ないが、病理医としては「薄切」という言葉がここで出てきたことをおもしろく思う*。
* 別にこれが初出というわけではなく、紀元前の『禮記』に既に「取牛肉必新殺者薄切之必絕其理」とある。

 ところで、闔閭はなぜ食べ残しを川に捨てたのだろうか?

 闔閭と鱠の関係を調べるために『呉越春秋』を読んでいた時、このような話を見つけた。先より遡って闔閭三年のことである。

吳王有女滕玉,因謀伐楚,與夫人及女會蒸魚,王前嘗半而與女,女怒曰:「王食魚辱我,不忘久生。」乃自殺。闔閭痛之,葬於國西閶門。外鑿池積土,文石為槨,題湊為中,金鼎玉杯,銀樽珠襦之寶,皆以送女。乃舞白鶴於吳市中,令萬民隨而觀之,還使男女與鶴俱入羨門,因發機以掩之。殺生以送死,國人非之。

『呉越春秋』巻二

 呉王闔閭には滕玉という娘がいた。闔閭は楚を伐つ謀をめぐらしていたが、夫人および滕玉と三人で食事をしたとき、蒸魚が出てきた。闔閭は先に半分食べてから娘の方に寄越したところ、滕玉はそれに怒り、
「王は食べかけの魚を私に与え、私を辱めました。この恨みは忘れられません」
 と言って自殺してしまった。闔閭はこのことに心を痛め、國の西にある閶門(地名)に彼女を葬った。池を掘り土を積み、文様を刻んだ石を棺とし、内に大木を積み重ねた。また金鼎、玉杯、銀樽といった宝を全て娘に贈った。そして呉の町に白鶴を舞わせ、多くの人にこれを見物するよう命じ、そうして集まった男女と鶴を墓の中に入れ、仕掛けをもって生き埋めにした。死者を弔うために、多くの生きた人間を道連れにしたことを民は批難した。

 なるほどそのような過去があったので、食べ残しを人に与えることなく捨てることにしたのか――もちろん「捨てた鱠が魚になった」などというのは創作であるが、なんとなくリクツがつくと嬉しいものである。

 滕玉の自殺理由については、「貴人の食事の残りは奴婢に与えられるのが常であったから、滕玉は婢女はしため扱いされたと思って自殺したのである」という説明がなされることが多い。が、これはあまり適切な説明とは思われない。もしそうなら、複数の人間で大皿を囲むときは、誰が先に箸をつけるか、残りものと見做されぬようどこまで食べるかで毎度大喧嘩になったであろうし、皆が彼女のように癇癪持ちなら食事のたびに死屍累々となろう。

 もしかすると、闔閭は残飯のように汚く食べ散らかしたのかもしれない。父親のそんな姿を見れば、娘として強い嫌悪を感じるのは当然だろう。以前から不仲であったなら、当てつけで自殺することもあるかもしれない――さすがにこれは冗談だが。

 それよりありそうなのは、以前から父娘の間に懸案があり、残した魚の半身にかこつけて闔閭が娘に何らかの意志を示し、それを察した娘が絶望し自殺した、という可能性である。文中わざわざ楚侵攻について言及していることも気になる。たとえば、娘はかねてから楚と関わりのある人物、または楚侵攻に反対する人物と婚約ないし結婚していたが、それは認められぬ、という意思を魚を使って闔閭が言外に示した、というのはどうだろう? 「では、破談・離別を示唆する魚の食べ方って何だ?」と聞かれると困るのだが……そうだなぁ……陰陽説で妻は陰・夫は陽であり、また背側は陰・腹側は陽であるから、蒸魚の腹側だけを綺麗に全て食べ、「お前にはこれだけだ」と言えば、お前に婚約者・夫はもはや居ない、という意味にならないだろうか? ……無理かな? 無理か。それとも、海魚は陽、川魚は陰であるから……うーん妄想はこのくらいにしておこう。

 なぜ私がこんな根拠のない妄想を弄んでいるのかと言うと、『呉地記』に、『越絶書』を引いて「夫差の娘が書生の韓重という者と夫婦になりたいと言ったが、夫差がそれを許さず、娘はそれを恨んで死んでしまった」という記述があるからである。

女墳湖,在吳縣西北六里。《越絕書》曰:「夫差小女字幼玉,見父無道,輕士重色,其國必危,遂願與書生韓重為偶。不果,結怨而死。夫差思痛之,金棺銅槨,葬閶門外。其女化形而歌曰:『南山有鳥,北山張羅,鳥既高飛,羅當奈何?誌欲從君,讒言孔多。悲怨成疾,歿身黃坡。』」又趙曄《吳越春秋》云:「闔閭有女哀(愛),怨王先食蒸魚,乃自殺。王痛之,厚葬於閶門外。其女化為白鶴,舞於吳市,千萬人隨觀之。後陷成湖,今號女墳湖。」流杯亭在女墳湖西二百步,闔閭三月三日泛舟遊賞之處。

『吳地記』

 夫差の話だから関係ないだろう、と思われるかもしれない。しかし、ここでは「女墳湖」という湖の名の由来について、『越絶書』と『呉越春秋』を挙げ「こういう説もあればこういう説もある」と並列させており、どちらも「呉王の娘が父に恨みをのんで死んだ」と共通する構図になっていることに注目する必要がある。そして、『呉越春秋』の方は、先に挙げた「闔閭の娘が蒸魚を先に食べられたのを恨んで死んだ」という話なのである(娘の名前が違うが)。

 呉は夫差の代に越王勾践によって滅ぼされた。隋の煬帝にしてもそうだが、その代で国を滅ぼした王や皇帝については、前の代がやった悪行やら醜聞やらを押しつけられることが少なくない。まさに「なんでも俺の仕業かよ……」である。「あいつはこんなに暴虐な奴だったから、それに取って代わった我々の行為は正統である」と主張するために、悪行を創作されることも多い。亡国の王が妊婦の腹を裂いたりするのは大抵これである。そういえば、煬帝も鱠が大好きだったらしく、八和齏という調味料を鱠にかけた料理(金齏玉膾)を「東南の美味である」と褒めた話が残っている(『夜航船』)。閑話休題。

 「女墳湖」という地名が残っているということは、実際に「呉王の娘が父に恨みをのんで死んだ」という事実はあったのだろう。闔閭の娘が親に結婚を反対されて死んだ、という事蹟が、夫差に仮託された可能性も捨てきれないのではないか? そこに蒸魚という小道具があったのかもしれない。……以上は無理に無理を継いだ私の妄想である。


 大幅に脱線してしまった。話を戻してもうちょっとだけ続けよう。

 これまでずっと呉王闔閭の話をしてきたが、おもしろいことに越王勾践にも似たような話がある。

膾殘 越王勾踐之保㑹稽也,方斫魚為膾,聞有吳兵,棄其餘於江,化而為魚,猶作膾形,故名膾殘,亦曰王餘魚。

『事物紀原』巻十

「膾殘」 越王勾踐が会稽を支配していたころ、魚をさばいて膾を作っていたとき、呉の軍が攻めてきたと聞き、膾を河に捨てたところ魚になった。姿形は膾のようであり、故に「膾殘」の名がある。または「王餘魚」と言う。

 こんなところで呉越同舟せんでもよかろうに。

 闔閭の場合は食べ残した膾だが、勾踐の場合は、調理中に呉の軍勢が攻めてきたため、慌てて捨てたことになっているのが可笑しい。勾踐は父の喪に乗じて攻めてきた闔閭を撃退したが、伍子胥を従えた夫差に破れ「臥薪嘗胆」することになるのである。

 おそらくこのあたりに発想を得たであろう話が、南宋の馬純による『陶朱新録』に見られる。当時、宋は女真族の金によって華北を奪われ南遷したところであり、彼もまた浙江省の陶朱山に仮寓していた。ここはかつて越の都があり、「陶朱山」はまさに范蠡が陶朱公を名乗ったことに因むのである。つくづくと呉越に縁があるものだ。ただし、范蠡が陶朱公と名乗るのは、「狡兎死走狗烹」と勾踐を捨てて定陶に移ってからなのだが。

河隂南廣武山漢髙皇廟在其麓殿前有八角井曰漢泉井中三魚一金鱗一黒一如常半邊鱗肉與骨皆無獨其首全與二魚並游水中但其游差緩不復有揚鬛撥剌之勢觀者憑欄俯窺雖異之而猶未審一日有墮井而死者因濬之遂得三魚鱗色如在水中時半邉者五肉皆無方大異之後復置水中至今三魚尚存俗傳漢髙皇食鱠庖人治魚及半而楚人至倉皇棄魚井中而遁此語固無根難信然已刳之魚而游泳不死亦可怪也。

『陶朱新録』

河隂の南にある廣武山の麓に、漢の高祖劉邦の廟がある。廟の前には「漢泉」という八角形の井戸があり、その中に三匹の魚が棲んでいる。一匹の鱗は金色で、もう一匹は黒色。最後の一匹はそこいらの魚と同じ鱗の色をしているが、身が半分しかない。頭はついているが、その後ろに鱗も身も骨もないのである。この魚は他の二匹とともに泳いでいるが、その泳ぎはのろく、水面に跳ね上がったりといったこともない。枠から身を乗り出して井戸の中を覗きこみ、このことに気づいた者もいたが、確かめた者は誰もいなかった。
 ある時、井戸に落ちた者の死体を浚うこととなり、ついに三匹の魚の色が明らかになった。色は水中にいるときと同じで、半身しかない魚は、 五臓(原文「五肉」だが「五内ごだい」だろう)はいずれもなく、他の魚とは大きく異なっていた。三匹の魚はまた井戸に戻され、今でも井戸の中に棲むという。
 言い伝えによれば、劉邦が鱠を食べたとき、庖丁人が魚の頭を落としたところに項羽軍が攻めてきたため、急いで井戸に投げこんだのがその魚であるという。こんな話はもとより根拠がなく信じがたいが、こんな姿形をした魚が死なずに泳いでいるというのは非常に不思議なことだ。

 廣武山とは、楚漢戦争の終盤を飾る滎陽の戦いの主戦場である。ここで劉邦は項羽と対峙し、後方攪乱に疲れた項羽は劉邦と和睦し軍を引揚げる。劉邦は約を破って項羽の背後を追撃し、怒った項羽にかえって敗れるといった醜態を晒したものの、彭越・韓信を呼び寄せ、最終的に楚軍を垓下へと追い詰めるのである。


 シラウオにしても正体不明の半身の魚にしても、その奇妙な姿を「あれは食いかけ」だの「あれは捌いている途中なのさ」などと適当なリクツをつける姿は好きである。

 本邦にも似た話はあるが、鱠が魚に生き返るのは信心のおかげ、と生真面目な説話になっている(『今昔物語集』巻十一第二話)。ある男が行基に強いて膾を食べさせた。行基いったん食べたものの、やがて口からそれらを吐き出すと、膾はもとの魚の姿になって池に戻ったという。

『本朝年代記圖會』巻五より

行基、慈悲の心深くして、人を哀ぶ事仏の如く、諸の国々修行して、本の国に返る間、一の池の辺を通るに、人多く集て、魚を捕り食ふ。行基、其の前を過るに、若き男たる、戯れて魚の膾を以て、行基に与へて、「是を食給ふべし」と云へば、行基、其の所に居て、此の膾を食給ひつ。其の後に程も無く、口より吐き出すを見れば、膾、小魚と成て皆池に入ぬ。此れを見て、驚き怖れて、止事無かりける聖人を、我等知らずして、軽め慢れる事を悔ひ恐けり。

『今昔物語集』巻十一第二話

 まあこういうのもいいけれども、ヨタ話は与太話で肩の力を抜いて楽しみたいものだネ。

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