子供のころ、母がときどき「コーセツイチバに行ってくる」と言うので留守番をしたことがあった。幼い私は「コーセツイチバ?」と思いつつ母が帰ってくるまで家の中でひとり遊んでいたのだった。
今は「XX公設市場」というものは多くが廃れたようである。
むかしあちこちにあった「公設市場」はいつごろ生まれ、今どうなっているのだろう、と資料を読んでいたら、「あっ」という発見があった。といっても公設市場とは何の関係もない。資料の隅に掲載されていた広告に「かぜには熱いうどんとこの薬」とあって昔の疑問が急に解かれたのである。

私の疑問というのは、『二十四の瞳』を読んだときの「うどんや風ぐすりとは一体なんだ?」というものである。たしか中学生の時分のことである。その時は小豆島のローカルな風習なのかな、で済ませてしまった。
せまい土間の天井を季節の造花もみじで飾ってある店を横目で見ながら、
壷井栄『二十四の瞳』
「大石先生、うどんや風ぐすりというのがあるでしょ、あれもらったら?」
そうね、と、返事をしようとしたとたん、
「てんぷら一丁ッ!」
威勢のよい少女の、よくひびく声が大石先生をはっとさせた。
その後、吉川英治の「江戸三国志」という小説を読んだときにもこの「うどん屋の風邪薬」が出てきて私の小豆島ローカル説は消滅したのだが、相変わらず正体が掴めないことには変わりなかった。
売卜先生は型の如く、早速、筮竹をとりあげて一本を端へのぞき、四十九本をザラリと押しもんで扇形にひらくと、思念の眼を伏せて額にあて、伏義文王周公の呪文をぶつぶつ念じ出しましたが、するとそこへ、
引用者注:そば屋が持ってきたのはうどんである。
「――お待ち遠さま」
うしろの日月の幕の間から、顔を出したそば屋の出前持ち、けんどん箱の中からあたたかそうな丼一個と、風邪の一服ぐすりとを取り出して隅の方へおき、客と見てそのまま首を引っ込めました。
そして今回、三十年近くたってようやっと、うどん屋で風邪藥を売っていたという事実を知ったのである。
品名は「うどんや風一夜薬」、店号は「末廣勝風堂」というらしい。「末廣」は創業者の姓、「勝風堂」はそのまま風邪に勝つの意であろう。
かぜを引いて臥せっているとき、何か食べないといけないとするなら、たいていはうどんではないだろうか。

「おかゆとうどん」ならば私もうどん派である。刻んだネギとカマボコが二三片乗っているとなおありがたい。さらにとろろこんぶと七味を添えてくれると最高だが、そもそも独り身の私には作ってくれる拷問係はいないのであった。そんなとき、うどん屋が風邪薬まで持ってきてくれれば、たいへん助かるというものである。なるほど。うまいところに目をつけものだ。
さらにおもしろいのは、古新聞を調査したところ同店は東京にも支店があったようだが、そこでは「そばや風一夜藥」になっていることである。

関東の人は風邪引きのときうどんではなく蕎麦を食べるのだろうか? となると上方落語の「かぜうどん」なんかは関東では「かぜそば」になるのかなぁ、なんてことを思った。
附録
どうもここの店主、末廣幸三郎というのはひどく変わった人であったようで、いくつかの本に「預言者」として名前が挙げられている(『新哲学の曙光』など)。なんでも1905年10月上旬の新聞にこんな広告を載せたとのことである*。
* 日附、新聞名不明はわからない。広告文は1906年1月20日の「滑稽新聞」から孫引きした
我れは救世の一大使命を帯びて生れたる者也
我れは現世を破壊して新らしき國を建設せんが爲に全權を帯びて來れる眞理の使者也
我れは古往今來人類の要求せる總ての飢渇を滿さんが爲に出現せる萬能者也
我れは祖國本來の精神を圓滿に顯揚し以て祖國をして萬邦救済の任命を自覺せしめ之を遂行せしむる爲に發顯せる大和魂の精華也
我れに虛僞なし我れは自己証明者也
我れは卽ち神なる人也
大阪市南區畳屋町三十番地
廣告主 末廣幸三郎
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます