本川根診療所のおもいで

 今は知らないが、むかしの研修医には「地域医療研修」というものが課せられていた。「地域」での「医療研修」とはたいそうな御題目だが、要するに田舎診療所の勤務体験である。他人ひとの靴にそっと石を入れ、さてどこまで歩けるかと眺めるのが好きな官僚が考えそうなことである。

 研修医のころ、私がいたところは、トカイトカイの都人みやこびとからすれば「ど田舎」とか「都落ち」とか言われるところにあった。

 「『地域医療研修』?へぇ……ここがその『地域』とやらですが、さらに『地域』に行かにゃならんのですかい?」ハテどこにゆくのやら、と思っていたら、提示された行先には本川根診療所とあった。本川根とは、なるほど、たしかに「地域」のなかの「地域」ではある。


 東海道本線と地方零細私鉄を乗り継いだ終点、そこからすこし登ったところにそれはあった。

 冬枯れの山を背に、白い二階建ての建物がひっそりと立っている。診療所というよりは、役場の出張所かなにかのようであった。

 カンバンを見るに、どうもここらしい。

 恐る恐る扉を押すと、年輩の看護師さんが顔を出した。

「受診ですか? あ、もしかして――ようこそ!」

せんせー来ましたよ、と奥へ引っこんだ彼女に釣られて、私も受付の奥へ顔をのぞかせた。

「いまインフルの子が来てるから、ちょっと待っててくれるかな」

 白髪の温厚そうな先生が、診察室の向こうから背を伸ばしそう声をかけた。

 ソファが並ぶ待合室には、お母さんに連れられてきたのであろう子供が三人、長椅子にちょこんと並んで座っていた。みなマスクをつけ、珍しいものでも見るようにこちらを見ている。山あいの小さな診療所に、見慣れぬ三十過ぎの男がのっそり現われたのであるから、無理もない。

 私は彼らから少し離れたところに立ち、腕を前に揃えて診察室の方を眺めやった。

 折しも冬のまっさかりであった。

 インフルエンザに罹った子供たちが、三人、四人と、母親の運転する車で連れだってやって来る。診療所の前に車が止まるたび、マスクをつけた小さな一団が、冷たい外気を背負って待合室へ駆けこんできた。

 子供たちは熱のためか一様におとなしい。見慣れぬ大男が大きな鞄を抱えて立っているのを、ときおり訝しげに見やった。こちらもまた、これからいくらかの時を過ごす場所が、初日からずいぶん繁盛しているものだと感心していた。

 やがて診察がひと段落すると、先ほどの白髪の先生が診察室から出てきた。

「いやあ、待たせてごめんね」K***先生は頭をさげた「K***です。よろしく」


 研修医二年目の冬が始まった。

 診療所には皆が来る。鼻を垂らした子供が来る。畑仕事の腰が来る。血圧の薬をもらいに来た老人が、帰りぎわに思い出したように胸の苦しさを訴えることもある。まちなかならば救急車で担ぎこまれるであろう人が、ここでは自分の足で、引戸を開けて歩いて入ってくる。「ちょっとこのへんが変でねえ」。心電図をとって、こちらの背筋に寒いものが走る。

 年輩ばかりではない。近くに工場や作業所があるので、若い衆もよく来る。指を挟んだ、腰を痛めた、眠れない。山あいの診療所といえども、そこに人の生活がある限り、病はひととおり揃うのさ。

 閑なときは、糖尿病の患者さんと小一時間、生活習慣の改善について雑談――もとい相談をする。減塩の話をしていたはずが、いつのまにか去年の茶の出来と、嫁いだ娘の話になっている。血糖値は下がらないかもしれないが「また話そうや!」。トカイトカイの外来なら数分でお引きとりであろうが、ここでは、それが診療である。


 宿は診療所からほど近く、駅からもあるいてすぐの旅館・福住館であった。

 夕餉には私のような居候にも焼魚を出してくれる。焼魚には、必ず生姜が添えられていた。これはおそらく土地の習いであろうか。茶どころだけあって、茶葉のてんぷらというものも出た。新芽を薄い衣で揚げたもので、青い苦味が塩でひきしまる。おひつからごはんをよそい、もりもりと食う。ふふ。まったく良い身分である。

 風呂は年季を感じるものの、不便はない。大きな湯船に、客は私ひとりである。首まで浸かって天井の木目を数えていると、ふふ、まったく良い身分である、という言葉がひとりでに浮かんできて、そのまま湯に溶けてゆく。


 三日目の朝。

 壁からしみこむ冷気に震えて目が覚め、何事かと障子を開けると、目に痛い白面がひろがっていた
――しばらく声も出ない。

 滑り滑り診療所に辿り着くと、途端に電話が鳴った。

「診療所やってますか?」

 数年ぶりの積雪だという。その日は患者もまばらで、K***先生と二人、窓の外ばかり眺めていた。

 医者が二人、並んで雪を見ている――それも診療所の仕事のうちかもしれない。

 そんな日でも、午後からは往診がある。看護師さんの運転で、先生と三人、患者さん宅へ向かう。この看護師さんは、谷に住む人々の家族構成から住所から、犬の名前まで知っている。

「えっと、ここは反対車線ではありませんか」

「そうですね。先生。でも、こっちのほうが雪が浅いから」

 なるほど……なるほど?

 診療を終えての帰り道、ふと見やると道端に雪だるまが転がっていた。誰が作ったものだろう。頭が随分と小さい。途中で雪が足りなくなったのか、飽きたのか。いずれであったのだろう。


 私が病理志望というのを聞くとK***先生は「これはできるかい?」と二枚のスライドガラスを重ね、指の腹でそっと引いた。

「昔はね、腹水を抜いたら、その足で検査室に持っていって、自分で塗ったもんだよ」

 肝硬変の腹水。癌性腹膜炎の腹水。抜いて楽にしたあと、濁った液の底に何が沈んでいるかは、自分で確かめた。そういう時代であったという。

「どう?」

 「不器用なもので」とおぼつかない手つきで、なんとか摺ったものの、不均衡・不均等そのもの。病理志望を名乗ってはいても、私はまだ、自分の手で細胞を塗ったことが一度もなかった。

 先生は笑って、空のガラスで一度やってみせた。重ねて、置いて、引く。力を入れているようには見えない。ガラスとガラスが離れるとき、ごく小さな軋みがした。その手つき、白衣の老人の機敏な所作であった。


 本院に戻ったあとしばらくして、研修の御礼に焼き菓子を送ったことがあった。

 ややして「ありがとう。先生のことで看護師さんと盛りあがりました」という葉書を受け取った。うむ。はて。そんなに変なことは、たぶん、しなかったはずだが……。


 今から思えば、K***先生はもと消化器内科医であったから、寄る年波から第一線を退いてもこういった診療所で働くことができた。

 私は病理医になってはや十五年になる。

 私がやがて定年になって常勤を辞めたあと――もしかすると検査会社の奥で顕微鏡を覗くことはできるかもしれないが、この本川根診療所の日日のように、患者とともに一喜そして一憂することは、きっと、できないのだろう。私は、もしかすると、どこかで、何かを、間違えた――のかもしれない。などということを、たまに考えることがある。


 

追記:K***先生こと倉田矩正のりまさ先生は2019年に引退された。

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