畢著 ―― もうひとりの沈雲英

 沈雲英の生涯をたどったとき、畢著ひっちょのことにすこし触れた。

 畢著は薊邱の守將の娘で、父が戦死したあと間髪を入れず夜襲を決行し、敵を撃退した烈女である。

 その事蹟は沈雲英となんら変わるところがない。しかし、畢著の名は明史には見えず、わずかに野史や詩集の中に散見されるに過ぎない。私はこのことをつねづね遺憾に思っているので、ここに彼女のことを簡介しようと思う。

 畢著の傳は『南疆繹史なんきょうえきし』の摭遺巻十五にある――にしかないと言ってよい。『南疆繹史』はもと『南疆逸史』といい、清の溫睿臨が明の亡命政権の歴史をまとめたものである。のちに李瑤によって増補され『南疆繹史』と改称された。

 それでは始めようか。

目次

畢著傳

畢著の人となり

畢弢文,名著,歙人。以女子戰賊,奪父屍。其䡮迹,大類沈雲英云。弢文生崇禎末,稟異姿。幼工文翰,兼能挽一石弓,譱擊剱。

畢弢文(韜文)は名を著といい、安徽きゅう縣の人である。女子ながら賊と戦い、父の亡骸を取り戻した。その残した功績は沈雲英に勝るとも劣らない。畢著は崇禎の末に生まれ、容貌は美しかった。幼い頃から文を綴るに巧みであり、また一石の弓を引き、撃剣に秀でていた。

 字は「韜文」に作る史料の方が多い。「韜」は「弢」の異体字。あるいは名を「朗」、字を「昭文」ともいう*。
* 『蘇州府志』「布衣王聖開妻畢氏名著〈一作朗〉字〈一作昭文〉歙縣人」

 生年は不詳。後述する薊邱の戦いはおそらく崇禎十五年で、そのときやっと二十になったばかりらしい。となると「生崇禎末」と矛盾するのだが、彼女についてはとにかく史料がすくないため他に類推する術がない。

 彼女が刀槍や弓に優れていたことは他の史料にも見える。たとえば沈德潛『國朝詩別裁集』に見える沈來遠(德潜の兄)序に「梨花槍を取ればその冴えは天下無双、また鐵胎弓や五石の強弓を引く弓の名手であった(梨花槍萬人無敵,鐵胎弓五石能開)」と記されている。

 梨花槍は先端に火薬を詰めた槍。火薬を炸裂させて敵の肝を奪い、その後槍で戦うのである。金末、山東で叛乱をおこした李全の妻、楊氏は「二十年梨花槍、天下無敵手」と称した(『宋史』列傳第二百三十六)。鐵胎弓は鉄をしこんだ強弓で、たとえば『三國志演義』で黄忠が使っていたりする。

薊邱の戦い

其父守薊邱,攖城拒賊,力竭戰死,屍陷賊中。其部從議請兵復讐;曰:『城在援且絕,況城沒邪!即有應,亦曠日,賊備無濟矣。』乘夜率衆出襲。賊方幸城中主將兦,夜決無變;方婐妓鬨飲,而一軍突入。賊駴如天下,驚愕失措。弢文手刄其渠,握首級號於衆曰:『敢抗王師者,有如此首!』賊乃潰。輒焚其營,追殺無祘;賊竟平。舁父屍還。時年甫二十也。捷聞,將援蕭山沈烈女事授官,俾討賊;弢文以父喪,辭歸,營葬金陵。及南中敗,事寢。

彼女の父は薊邱(北京城の西北。あるいは薊州)を守っていたが、城を守って賊と戦い、力尽きて戦死し、その亡骸は賊軍の手に落ちた。部下は援軍を待って復仇しようと言ったが、彼女は「援軍が来ようと私たちには死あるのみです。まして城が落ちればなおさらです。援軍が来るにしてもそれを待って時間をいたずらに空費すれば、その間に敵は備えができてしまい意味をなさないでしょう」と言い、夜陰に乗じて兵を率い賊に襲撃をかけた。賊軍は城の主将が戦死したので、今夜はもう何も起きないと侮り、女を腕に抱き、酒を呑んで騒いでいたところに畢著の率いる軍が突入したのである。賊が驚愕し呆然自失としているうち、彼女は敵将を自ら斬り捨て、首をひっつかんで高らかに宣言した。「皇帝の軍に逆らう者はこの首のようになるぞ!」賊はたちまち算を乱して逃げ出した。彼女は敵の軍営を焼き払い、追撃して無数の敵兵を討ち取り、ついに敵は撃退されたのであった。彼女は父の亡骸を持ち帰った。この時、彼女はまだ二十であった。勝利の報告を聞き、蕭山の烈女・沈雲英のように官を授け、賊討伐にあたらせようという話が持ち上がったが、彼女は父の喪に服すため辞して帰り、金陵で父の葬儀を行った。やがて南に亡命した明も滅び、そのまま沙汰止みとなった。

 畢著の父の名は傳わらない。葬られたのは金陵の龍潭とされる。

 沈德潛『國朝詩別裁集』や俞樾『薈蕞編』などは敵を「流賊」としているが、これは明らかにおかしい。薊邱にせよ薊州にせよ、明が滅ぶ前に叛亂軍がこんな北の端まで到達したという記録はない。これはどう考えても清軍のことである。

 この戦いは『明史』*『清史稿』**によれば1642年(崇禎十五年、崇德七年)と考えられる。敵将は阿巴泰らだが、阿巴泰はじめ名のある部将が薊州で戦死したという記録はない。この前後にも清兵は何度も侵攻を繰り返しており、名も無き一支隊なのかもしれない。
* 本紀第二十四「十一月(引用者略)庚辰,大清兵克薊州。」
** 卷二百四十九、列傳三十六「(引用者注:崇德)七年,從饶餘貝勒阿巴泰等入长城,克蓟州;進兵山東,攻夏津,先登,拔之:予牛錄章京世職。」

畢著のその後

當其隨父任時,願委禽者沓至,弢文俱不可;若求才之得兼智勇者,方許。至是,歸於昆山土人王聖開,相誓偕隱;遂入吳門,結廬僻境,宅畔種梅百本以自給。人異其能殺賊而復有林下風,爭識之;則見裙布釵荊恬然井臼,無復昔時英概矣。

彼女が父の任を継いだとき、結婚を申しこむ者が次々と現われたが、韜文はみな断り、知勇を兼ね備えた人のみこれを許した。そして昆山(江蘇省昆山縣)の王聖開に嫁ぎ、二人で隠棲しようと誓い合った。呉門(蘇州)の辺地にいおりを結び、家のあぜに百本の梅を植えて、自給の生活をおくった。世間の人は、彼女の武勇と優雅な挙措を異として、あらそって交わりを求めた。しかし彼女の方は粗末な服を着て、恬然として自ら家事をしており、往事のような英雄の気概といったものはちらとも見せなかった。

 王聖開については昆山の布衣(民間人)としかわからない。

「委禽」とは結納のこと。『春秋左氏傳』昭公元年に「鄭徐吾犯之妹美。公孫楚聘之矣。公孫黑又使強委禽焉」とある。鄭の徐吾犯の妹は美人であった。公孫楚が聘財を送った(婚約した)が、公孫黑もまた使者を遣わして強引に「委禽」した。この杜預注に「禽鴈也。納采用鴈。」とある。「鴈」は「雁」の異体字。結納に雁を象ったものを送る風習があったらしい。

「偕隱」は共に隠棲すること。左傳の僖公二十四年に「其母曰能如是乎與女偕隱」とある。

「林下風」は「林下風気」や「林下風致」とも。『世説新語』賢媛に「王夫人神情散朗,故有林下風氣。」とある。女性について、その挙措が閑雅であることを褒める言葉。

「裙布釵荊」は「荊釵布裙」とも。「荊釵」は荊のかんざし、「布裙」は木綿のすそ。後述する梁鴻の妻、孟光の故事から。女性の粗末な服装を指し、徳のある行いを積んでいることを褒めて言う。沈復『浮生六記』坎坷記愁「未必能安於荊釵布裙也」など。

「井臼」は井戸をくみ米をつくこと。『列女傳』「賢明」に周南の妻のこととして「親操井臼」、あるいは『後漢書』馮衍傳に「兒女常自操井臼」とある。女性が自ら家事を行なうことを言う(いいとこの奥さんは自分で家事なんかしないんですよ)。

畢著の詩

 「摭遺曰」以下については、より記載が充実している惲珠『國朝閨秀正始集』の方を訳出して替えることとする。

沈來遠序

沈來遠序其詩稿,有「梨花槍萬人無敵,鐵胎弓五石能開」又云「室中椎髻,何殊孺仲之妻。隴上攜鋤,可並龐公之偶。」孝女奇才,眞不可測。

沈來遠(沈德潜の兄)が韜文の詩稿に序を寄せている。「彼女は、梨花槍を取ればその冴えは天下無双であり、鐵胎弓や五石の強弓を引く膂力の持ち主であった」また「家の中ではひっつめ髪(椎髻)であり、王霸の妻と同じである。隴上に鍬を置く龐徳公の妻にも並ぶ賢妻である」孝女の奇才はまことに測りがたい。

 彼女の詩は「紀事」と「村居」のみ傳わる。その前に語釈をこまごましておこう。

椎髻(『後漢書』逸民列傳)
 後漢のとき梁鴻の妻であった孟光の故事に因む。次に挙げる王霸の妻と同じく、夫に隠棲をすすめる賢妻の喩え。
 梁鴻は字を伯鸞といい、扶風平陵の人。貧しかったが学問に通じており、多くの人が競って娘を嫁に娶せようとしたが、彼はいつも断ってばかりいた。同じ県に、孟光という娘がいた。醜く色黒で、年は既に三十(当時としては完全に嫁き遅れである)だったが、石臼を持ち上げるほど力が強かった。両親がなぜ嫁に行かないのか問い詰めると、娘は「梁さまのような賢いお方のところに嫁ぎたいのです」と言う。これを聞いた梁鴻は彼女を娶ることにした。
 孟光は始め着飾って嫁いだはいいものの、七日たっても梁鴻は口をきこうとしない。孟光は牀下に跪いて夫に問うた。
「あなたは志高く、これまで誰も娶ろうとはされませんでした。私もまたあなた以外の人のもとへ嫁に行こうとは思いませんでした。今このように夫婦になったのです。私に悪いところがあれば教えてください」
 梁鴻は答えた。
「わたしは、裘褐きゅうかつ(質素な衣服)を着て、ともに山奥で隠棲する相手を求めていたというのに、お前は絹を着飾って白粉をはたき、眉墨を描いている。そんな女を私が求めるとでもおもうのか?」
 孟光は「あなたの志を試しただけです。私もまた隠棲のための服を持っております」と言い、髪をひっつめにして、質素な服をまとった(乃更爲椎髻著布衣)。梁鴻は「それでこそわが妻だ。これからよろしくお願いする」と大いに喜んだ。後に妻は夫に隠棲をすすめ、二人は霸陵山に入り、耕作しつつ詩をうたい、書を読み、琴を弾じて暮らしたという。

孺仲(『後漢書』逸民列傳・列女傳)
 王霸の字。後漢、太原廣武の人。若くして隠棲した。あるとき、旧友に比べわが子のみすぼらしい姿を見て後悔した王霸を、妻が「あなたは若いころから清節を修め、栄禄を顧みませんでした。その志の高さに比べれば、旧友の高位など物の数ではありません」と叱咤した。

龐公(『襄陽記』)
 龐徳公。三国時代、襄陽の人。夫婦仲睦まじく、田畑を耕して暮らした。荊州牧の劉表がたびたび招いたが、仕官しようとしなかったため、劉表は自ら赴いて龐徳公に言った。「自分の身だけ後生大事に守るのと、天下の安寧を保つこと、どちらが大切でしょうか?」龐徳公は笑って答えた。「鴻鵠は高い林の上に巣を作るので、日が暮れても戻ることができます。鼉や亀は深い泉の底に巣穴を作るので、夕になっても宿にありつけるのです。そも人の進退というものは巣穴のようなもの。ただそれぞれが住処を得られればそれでよく、天下など守るほどの価値はありませんな」と言い、耕すのをやめて隴に腰かけた(「因釋耕隴上」)。

「紀事」

 吾父矢報國  が父報國をちか
 戰死於薊邱  薊邱に戰死す
 父馬為賊乘  父が馬は賊のじょうとなり
 父屍為賊收  父がしかばねは賊に收めらる
 父仇不能報  父の仇むくゆるあたはずんば
 有愧秦女休  秦女休にづるあり
 乘賊不及防  賊の防ぐに及ばざるに乘じ
 夜進千貔貅  夜進む千貔貅ひきゅう
 殺賊血漉漉  賊を殺せば血漉漉ろくろくたり
 手握仇人頭  手づから仇人の頭を握る
 賊眾自相殺  賊眾ぞくしうみづかひ殺し
 屍橫滿坑溝  屍は橫たはり坑溝かうこう滿
 父屍輿櫬歸  父の屍は輿櫬よしんして歸り
 薄葬荒山陬  いささか荒山のすみに葬る
 相期智勇士  あひ期す智勇の士の
 慨然賦同仇  慨然かいぜん同仇どうきゅうせんことを
 蛾賊一掃盡  蛾賊がぞく一掃いっさうつくせば
 國家固金甌  國家もとより金甌きんおうたらん

  吾が父は誓って国に尽さんと戦い、薊邱に斃れた。
  父の愛馬には今や賊が跨がり、その亡骸は賊に奪われた。
  (女の身とはいえ)父の仇を討てなければ、秦女休に合わせる顔がない。
  私は賊が油断しているのに乗じ、夜陰千人の勇士とともに攻めかかった。
  賊を斬り殺し、その血はたらたらと滴り落ち、我が手には仇の首が下がる。
  賊は同士討ちを始め、横たわる死体は坑溝に満ちた。
  父の亡骸を棺に納めて帰り、荒れはてた山の麓に葬った。
  知勇の士よ、ともに心を奮いたたせ「同仇」を賦そうではないか。
  蛾賊どもを悉く一掃すれば國家は安泰なのだから。

「秦女休」は西門秦氏の女で、名を休という。十四五のとき宗族の仇をとった。李白の「秦女休行」で有名。山中に逃げたが捕えられ、死罪になるところであったが、天子がその義烈に感じ恩赦を与えたという。

貔貅ひきゅうとは『史記』に見える戦いに用いられた猛獣。「貔」が雄で「貅」が雌。転じて勇猛な兵士のこと。

漉漉ろくろくは液体・水滴(この場合は血)がたらたらと流れること。

輿櫬よしんは棺を担ぐこと。

「同仇」とは『詩経』秦風「無衣」を指す。戦友の結束を歌ったもの。
 豈曰無衣  豈衣無しといはんや
 與子同袍  子と袍をともにせん
 王于興師  王 ここに師を興す
 修我戈矛  我が戈矛がばうを修め
 與子同仇  子と仇を同じうせん(以下略)
「着物がないわけではないが、君と同じものを着たい。王が軍をお起こしになった。武具を繕い君と肩を並べ同じ敵と戦いたい」

蛾賊がぞくは『後漢書』皇甫嵩傳*に黄巾賊の別名として現われる。敵を嘲って言う。「蛾」は「蟻」とも。
* 皆著黃巾為摽幟,時人謂之「黃巾」,亦名為「蛾賊」

金甌きんおうとは金の瓶、国家のたとえ。「金甌無缺」とは国家が強固で外国の侵略を受けないこと。


「村居」

 席門閑傍水之涯  席門せきもんかんふ 水のほとり
 夫婿安貧不作家  夫婿ふせい、貧に安んじ 家をさず
 明日斷炊何暇問  明日すゐを斷つ 何ぞ問ふに暇あらん
 且携鴉嘴種梅花  且らく鴉嘴がしたづさへて梅花ばいくわゑん

  湖のほとりの静かなあばらやで
  あなたとふたり清貧のくらし
  明日食べるものがないなんて知らないわ
  わたしはね、この鍬で梅の木を植えるだけ

「席門」とは戸のかわりに「むしろ」を下げただけの入口のこと。貧居を指す。

夫婿ふせいとは妻が夫を呼ぶ称。

「作家」は「家をす」つまり家の財産を作ること。

「斷炊」は炊ぐ米がない、食うものがないこと。

「何暇問」それを問う暇がない、転じて「どうでもよい」。

「鴉嘴」とは中国のを指す。つまり日本の。日中で字が逆である。


 畢著について我々が知ることができるのは、上記がほぼ全てと言ってよい。

 彼女について傳えられる所が少ないのはなぜだろうか。沈雲英とは違い、毛奇齡や蔡大敬のように事蹟を殘してくれる文人がいなかったせいかもしれない。それはおそらく相手が清軍だったことも大きな要因だろう。彼女が気を吐いたのも束の間、明はすぐに滅び、中国は清が支配するところとなった。となると、清軍と戦った人間をおおっぴらには褒めにくいものである。いくつかの史料が彼女が戦った相手を「流賊」と明らかに偽っているのもその証左と思われる。

 しかし、おそらく彼女はそんな些事に頓着しなかっただろう。

 彼女が何を思い、いつまで生きたのか、それはもう分からない。ただ、彼女は最後まで「村居」で詠うような生活を送ったのであろう、と想像されるだけである。

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