Irkutは,ロシア帝国シベリヤ地方に位置する都市である.人口は1914年現在で8644人. Ivan IV Grozny (8-5-9)治世の1581年,コサックKoltsov-Mosalskiの指揮下に設けられた宿営地を起源とする. 街はバイカル湖西岸にあたり,当初は湖で採れる魚類をわずかに産する寒村であった.
Irkutが帝国史に顕れるのはFedor I (5-4-6)の時代である. 周囲の不毛の地に比して豊かである(基本課税3)ことに目をつけた帝は, 当時圧力を強めつつあったハルハやオイラトに対抗する前線基地とするべく,急激な人口増加で困窮した都市部の貧民を送り出したのである. Boris I Godunov (5-8-6)の代になってもこの方針は継続され,1599年Irkutは植民都市に昇格した.
Irkutが全盛期を迎えたのはその直後である. 当時TurukhanにあったCot (Center of Trade)が衰退し, かわってIrkutに置かれたことが発端である. Irkutの街には,ハン国や明,また遠く日本からの商人が訪れ, 当時需要が増大していたシベリヤ産毛皮の売買が盛んに行われた. 東方の重要拠点として,街の周囲には城壁が築かれ,徴税官や知事の公舎が街に並んだ. また多くのシベリヤ探検隊がこの地に滞在し,不足した人員を募った.希望に燃える若者たちは,街の者に見送られつつ次々と東方へと旅立っていった.そしてその多くは二度と還らなかった.
17世紀初頭のモンゴル征討においては,Ivan Moskvitin将軍率いる三千の軍が, 渡河侵攻してきたオイラト軍二万を大いに破った「Irkutの戦い」が有名である. また,苛酷なシベリヤ探索において,指揮官を喪い撤退中の探検隊が, 越冬施設のあるIrkutにたどり着く直前,厳寒のなか全滅するといった悲劇もあった.これをモチーフにしたのが『狼災記』である.
しかし,この繁栄も長くは続かなかった. 帝国の拡大に伴うモンゴル諸族や明の衰退により,ロシア商人による寡占が続いた結果, CoTが閉鎖されたのである. Irkutから商人の姿は消え,残ったのはもとの静かな漁村であった.
続く18世紀のプガチョフの乱においては,Irkutも戦火を免れることはできなかった. 叛乱軍一万による攻囲の結果,冬を待たずして要塞は陥落し,大規模な掠奪を受けたのである. なお,要塞司令官の娘がYekaterina II Velikaya (9-9-8)に謁見したエピソードは, 後に小説化されている.
現代のIrkutは,漁業の盛んな一地方都市である. 訪れる人は,残された城壁や知事公舎から,当時の繁栄をうかがい知ることができるという.
(EU2 watkabaoi modのAARである.念のため.2017-10-28記)
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