赤穂のカレー

 赤穂城の近くにほんのすこしだけ住んだことがある。

 「住んだ」というのはかなり大げさで、赤穂城の近くにある病院に三週間ほど泊まりがけで実習に行ったことがある、というだけである。関西から赤穂だと新快速で通えないこともないが、せっかくなので病院が用意してくれた宿舎を借りて住んでみたのだった。

 実習中「どうしてわざわざ赤穂まで来たの?」と現地の看護師さんにきかれると、私ははじめ「いや、実習の日程がそう決まっているもんで」などと失礼極まりない返答をしていたのだが、しばらくすると「いやぁ、良いところだと聞いたもんで」と答えるようになった。実感として院内ののんびりした雰囲気が私の好みであったこと、街もまた静かで良いところだったからである。

 宿舎の東には千種川が流れ、西を仰げば赤穂城があった。

 病院が休みの日は赤穂の街を散策し、本を読みながら一日中川や海を眺めた。千種川の流れは早く、一日中眺めていても飽きなかった。

 赤穂城の白壁も美しく、300年以上前に沖合を船で通りがかった Engelbert Kämpfer が「白壁と隅櫓のある立派な赤穂城」と褒めているのもかくやと思われた。司馬江漢もまた「城は一方は海をかた取り、角楼、大手、外堀ありて能よき城なり」なんて称えているから、当時は直接海に面していたのだろうと思われる。


 ある日、同じ時に実習に来ていた同輩が「釣りをしてみたい」と言いだしたことがあった。私の方も釣りは初めてである。素人ふたり釣具店に入り、なんとなく道具を揃え「どこで釣りができますか?」と店員にきくと、彼は「ここから南に打ちっぱなしの方にいけばいいよ」と首をかしげながら教えてくれた。

「『打ちっぱなし』ってそんな目立つコンクリ壁があるんかな?」と私。

「アホか。『打ちっぱなし』ゆうたらゴルフ場のことや」と同輩。

「そうかえ?」「よし賭けようやないか」などわちゃわちゃ話しながら南に歩くと、やがて目の前に高いネットが見えてきた。

「やっぱり賭けるとかよくないな。ほら、あれや、なんか知らんけど法令的に」

「いまさら遅いわ」

 岸壁に着いて見よう見まねでオキアミをカゴに入れて海に下ろしてみたが、結局ボウズであった。釣れたところでクーラーボックスを買うのを忘れていたからしかたない。もし釣れたらいったいどうするつもりだったのだろうか。

 その日の海は穏やかで、初夏の風が心地よかったことを覚えている。しかたなく海を眺めながら「あかんな」「あかんあかん今日は魚も休みや」とぼやきながら昼寝をしたのだった。


 またある日、駅前で二人しこたま酒を飲んだあと、同輩が「赤ちょうちんの屋台でラーメンを食ってみたい」と言いだしたことがあった。

「そないこと急に言われてもなぁ」と夜の街を酔っぱらい二人で歩き回り、方々探し回ったものの遂に見つけられなかった。同輩曰く伝説的なラーメン屋が街を徘徊している、ということだったが。

 酔いも醒め気味に宿舎に戻る途中、足を滑らして畑に落ちそうになった同輩を扶けながら、なぜそんな話になったか分からぬが

「まあなんだ。出世とか給料とかどうでもいいから、いい仕事をしたいもんだな!」

「そうだそうだ!」

なんてことを大声で喚きながら、酔っぱらい二人ふらふら歩いたことを憶えている。


 ところで関西人同士の言い合いというのは、よその人からすると随分きつく聞こえるらしい。何だったか忘れたが、内視鏡切除術の見学をしているとき、想定されるT期が何かで同輩と言い合いになったことがあった。

 われわれはふつうに自分の考えを言い合っていただけだったが、傍にいた年輩の看護さんは私たちが大喧嘩をしていると思ったらしく、「あの、この本に載っているかもしれませんから……」と『大腸癌取扱い規約』をおずおずと持ってきた。私と同輩は思わず顔を見合わせ「あ、そうですね。ここら辺に載っていますね」などと和解を演出(?)したのだが、病理医になってから、大腸癌の規約を開くたびにこのことを思い出す。


 赤穂を離れてしばらくたったある日、お世話になったO***先生から「うちに就職しない?」というメールをもらったことがあった。当時すでに静岡の方に就職を決めていたため、正直に事情を話して断ったのだが、

「一歩遅かったようですね。でもS***市民病院と聞き縁を感じました」

「私も赤穂へ赴任する直前までS***市民病院へ赴任することが内定しており、挨拶にまででかけましたが、直前になって教授から赤穂へ行くように言われて大どんでん返しでした。懐かしく思い出します」

「当院のK*** Dr.もS***市民病院から転勤してきており、またご一緒することもあるでしょう。当院からも何名かS***へ転勤となっており、知り合いも数名います」

「頑張ってください」

と言われてから二十年近く経った。 

 今思い返すと、もし赤穂の方が話が早ければ私は赤穂に行ったに相違なかった。そして、もし赤穂に就職しておれば、私の病理医生活はずいぶん変わったものになっただろうし、もしかすると病理はやめて小児科医あたりになっていたかもしれない。


 ひとつ赤穂に思い残したことがあるとすれば、駅構内から続く商業施設内にあったカレー屋である。インド旗だったかネパール旗だったかが掲げられたよくあるカレー店なのだが、私好みの辛めの味つけで、また安かったから私も同輩もしばしば通った。シシカバブというものも初めてここで食べたはずである。たいへんおいしいものであった。

 赤穂での実習が終わる前日、同輩とふたりで「赤穂の思い出にカレーでも食うか!」と実習もそこそこにカレー屋にしけこんでいたところ、急に院長から呼び出しを喰らった。たしか当時のH***院長は白いアゴヒゲが特徴で、自治体病院協議会か何かのエライさんだった。

「くだらん。院長だかなんだか知らんが待たせとばええんや。突然言う方が悪い」

まだ届かぬカレーを待ちつつ、私は些かも譲るつもりはなかった。しかし同輩はK大生のくせに常識人であった。

「まあそう言うな。届いたら急いで食べて行こうや」

「あかんあかん。メシは慌てて食うもんちゃう」

「院長やし、なんかエエとこに連れて行ってくれるんちゃうか?」

「ほーんまあそうかもしらんな」

「なんか用意してくれてるかも」

「まあ、そうかもしらんな」

「それを無にするのも、なぁ?」

「まあそうねぇ……お、きたきたきた」

と二人ともあわてて食べたものの、同輩に「やっぱり待たせたらいかん」と急かされ半分ほど残さざるを得なかった。出してもらったものは全て平らげる信条の私としては痛恨の失態である。通された座敷は私ごときが生涯足を踏み入れることはなかろうと思われるようなものであったが、何を食べたか、どんな話をしたかは全くおぼえていない。


 翌日、慌ただしく宿舎を片づけ、最終便の新快速で私は赤穂を離れた。既に日は落ち、車窓の外は真っ暗だった。頬杖をついて流れゆく街灯を眺めながら「またここに来ることもあるのだろうか」と考えているうち赤穂は遙後ろに遠ざかっていった。


 同輩はのちに血液内科医になり、R***研究所に行ったと聞いた。

 赤穂から戻って十年ほどたったある日、昼飯を食いに道をとぼとぼ歩いていたら彼に出くわしたことがあった。私は彼を指差し、

「おお!」

彼も私を指差し、

「おお!」

「「お前こんな所で何しとんねん」」

一言二言ことばを交わし、まあこの仕事をしていればまた会うこともあるだろう、と別れた。さて、次はいつだろうか。


 あれからずいぶん月日が経ったが、食い意地の張った私は今でも「あれは店の人に申訳ないことをしたなぁ」という思いが残っている。静岡、アメリカを経てまた関西に戻ってきたことであるし、あの日残してしまったカレーの供養のために、いつか赤穂を再訪してゆっくり食事をとらなければならないだろう。

御期待に添えないのは残念ですが、また将来実習のお世話になったご恩をお返しする機会もあろうかと思います。

O***先生への返事に何気なく書いたこの一文を履行するためにも、ね。

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