九州帝大病理学教室の医局日誌を眺めていたら、一時期野球ばかりしていることに気がついた。
日付 | 対戦相手 | スコア |
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1937年01年20日 | (病理學教室懇親野球大会) | 9-9 |
1937年04年21日 | 細菌學教室 | 敗北(13-5) |
1937年05年25日 | 皮膚科 | 勝利(10-4) |
1937年05年31日 | 婦人科 | 勝利(53A-4) |
1937年07年10日 | 耳鼻科 | 勝利(6-7) |
1937年09年16日 | 細菌學教室 | 敗北(15-4) |
1937年09年25日 | 解剖學教室 | 敗北(8-6) |
1937年10年02日 | 薬理學教室 | 敗北(6A-1) |
1937年10年23日 | (病理學教室懇親野球大会) | 8A-7 |
「53A-4」などのAはアルファゲームのこと。後攻が優勢であるため九回裏を行わずゲームセットにすることである。もし九回裏をやれば何点か入ったかもしれない、という意味の「+α」を表わし、「53A對4」のように表記する。この表記は戦前よく用いられたが、戦後も海外の日本語新聞などで使われているのを見たことがある。なお、今なら「53x-4」と書くのは、”α” が “x” に転じたのである。
メンバーはだいたい同じで、助手、大学院生、専攻学生からなるチームである。
また基礎医学教室によるリーグ戦もあったらしい。9-10月のものがそれで、3連敗している。負けたときは「十三對五にて惜敗」「十五對四にて惜敗」といつも「惜敗」と強がっているのがちょっとおかしい。さすがに十点差で惜敗は無理である。
ほかの年度はどうかと思ったら、野球の記録は全く見られない。時局柄、ちょこちょこ満洲や中支に出征しているから、野球好きのメンバーがいなくなってしまったのだろうか。もしかすると不要不急ということで差し止められたのかもしれない。この辺の事情はよくわからない。
九大病理の医局では、毎年春期・秋期旅行に行っていたようだ。
昭和九年は雲仙岳に登ったが、途中雨天に阻まれたため下山し、四海樓で宴会をしたとある。
昭和十二年は大分の久住高原に行き、両筑屋旅館に一泊している。この旅館は最近まであったようだが、残念ながら今は廃業している。途中、鳥栖駅で乗り換えをまちがえて博多に戻ってしまった医局員もいた模様。次いで筋湯温泉、中野温泉、冷泉寒地獄、飯田高原を巡っている。中野温泉の「中食入浴(有名なムール浴)」というのはおそらく食事しながら入浴するのだろうが、どんなものを食べるのだろう?
昭和十五年春は宗像、神湊の魚屋旅館に滞在している。赤間駅ないし東郷駅からバスで向かっている。大島を見渡す一室に陣取り、眺望を楽しみながら囲碁将棋に興じたとのこと。宗像神社に詣で藤やあやめを鑑賞し、狛犬を見て「酒の神様」とはしゃいだりしている。
昭和十五年秋の行き先は高千穂峡であった。午前九時に博多駅を出発し、十二時に熊本着。うなぎ飯を食べ、水前寺駅から豊肥本線で立野駅へ。そこからバスで高千穂に向かっている。天岩戸神社で記念撮影し、延岡へ。大淀河畔の廣瀬旅館で一泊。翌朝観光バスで宮崎神宮に詣で、青島の熱帯植物や水成岩を眺め、鵜戸神社に向かう道でバスガールから七峠七浦の話を聞いている。七峠七浦とは、新婚の花嫁を馬に乗せ、新郎が轡をとりつつ鵜戸参りする風習である。それなりの難路であり、吊橋効果により新婚夫婦の絆を深めることを狙ったものだろうか。宮崎駅で現地解散。
昭和十六年の春期旅行は、日帰りで築港から海路平戸の宮ノ浦へ向かっている。帰りは陸路福岡へ戻っている。
昭和十六年の秋旅行は、時局柄ハイキングになってしまったようである。今川橋から木炭バスで前原へ、そして加布里(福岡)へ。湾内でかしわ餅なんかを食べながら、みなで釣をしたとのこと。宿泊は「此の里」というホテルで、魚やらなにやら飲み食いして相変わらず囲碁将棋に興じている。この日記は情景描写など詳しくて驚かされるが、書いているのは当時大学院生であった賀來維貞氏とのことである。そしてこの秋期旅行から楽しく帰ってきた翌月、大東亜戦争が始まったのだった。