赤松則良がオランダ留学に向かったとき、バタヴィアを発ってセントヘレナに向かう航海中、マダガスカル沖で桃の缶詰を食べたことを記している。船長が元日の祝いに出してくれたもので、時に文久三年正月(西暦1863年2月18日)のことであった。同行していたのは榎本武揚や内田正雄、澤太郎左衛門らだが、誰も缶詰のことを知らなかったそうである。これが日本人が始めた缶詰を食べた記録かもしれないが、案外出島の役人の記録を調べればもう少し遡ることができるかもしれない。
……などと缶詰のことを考えているうち、水ようかんのことを思い出した。子供のころ、カンカン入りの水ようかんが大好きだった。冷蔵庫でよく冷やして、クーラーのきいた部屋で父に「ようかんで食え」なぞと言われながら食べるのである。
あれは暑中見舞いだったのだろうか。箱の中に入っており、ひとつひとつ小さなスプーンがついていた。食べ終わったあと、スプーンは母にいったん取りあげられてよく洗われ、乾かしたあと私の遊び道具になった。
なお「ようかんで食え」というしゃれは遅くとも明治のころにはあったようで、中津出身の実業家で北海道炭礦汽船の社長をつとめた磯村豊太郎は、土産物に添えて「羊羹で喰べて燻製(よう噛んで食べてくんせ)」なんて手紙を送ったりしている。ちと話が逸れるが、この磯村という人は慶應時代にストをやって諭吉を困らせたり、逓信省で電話事業の立ち上げに奔走したり、日銀や三井物産を渡り歩いたり、となかなかおもしろい経歴の人である。しゃれも好きだったようで、明治二十四年、逓信省の人事が大きく動いたときに残した狂句に「古澤に河津飛び込む密のあと」というものがある。もちろん芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」からである。逓信次官が前島密から河津祐之に交替し、郵務局長であった古澤滋も同時期に辞職したことにかけている。なかなかうまい。この人事刷新に伴って官規の粛正がはかられ、秘書官付きで気儘な勤務をしていた磯村はそのあおりを食らって記録係に回され、それに腐って辞職することになったのであった。閑話休題。

年をとるとあまり甘い物はいけなくなったので、みっしり詰まったいいとこの羊羹なんかはひときれ義理でいただいて「ごちそうさまでした」だが、カンカンに入った水ようかんなら今でも食べられる気がする。
もっとも最近は缶詰は流行らないようである。中村屋のウェブサイトでは「日本で初めて水ようかんの缶詰を作ったのが中村屋!」の記載があるが、その中村屋も今ではプラスチック容器にしてしまい、缶詰入り水ようかんは作っていないようである。もっとも荒井公平が1931年に発明したというのも本当のことかはわからない。長塚節の父に宛てた手紙に「罐詰羊羹」の語が見え、大正の初めにはこの手のものは既にあったようだ。
ツナ缶なんかも、アメリカでパウチ入りのものを見つけ「へぇ」と驚いていたら、日本でも普通に売っているのを見て二度驚いた。私が知らなかっただけのようだ。このパウチ入りツナはアメリカ時代に一度だけ食べてみたことがある。Bumble Bee というメーカーのもので、なぜかクラッカーと小さなスプーンがついていた。面倒を嫌うアメリカ人向けだろうか。味はまさに「食えるダンボール」で、あちらでは高級品の Kewpie マヨネーズでクタクタにしてなんとか食えなくもない、というレベルで買ったのをひどく後悔した。
パウチの利点は、捨てるときにかさばらないことだろうか。缶詰は形が崩れにくいので、水ようかんや、フレークでない魚には向いていると思われる。賞味期限もパウチに勝るだろう。しかしその利点も技術の進歩によってパウチやプラスチック容器によって代替され、いつか「なんで缶詰にこだわっていたのかなぁ」と思う日がくるのだろう。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます