廖化という三國蜀の將軍がいる。はじめ関羽のもとで主簿をつとめ、関羽が敗れたあと呉に一時属したが、自分が死んだという噂を流して劉備のもとに帰った。その後だんだん出世して右車騎將軍、假節、并州刺史に至り、中郷侯に封じられた。
私が彼の名を知ったのは立間祥介訳『三国志演義』だった。あの顔色の悪い関張が表紙の平凡社奇書シリーズである。当時再放送されていたNHK人形劇三國志にいたく感銘を受けた私はあれを貪り読み、そしてそのなかに出てきた「廖化」という部將になぜか心を惹かれた。まだ小学生であったから「廖」の字が読めなかったが、光栄のファミコン版三國志(初代)でリョウカと読むのだと知った。

ゲームでも三国志演義のなかでも彼の評価は「別に無能ではないが、特に傑出した能力はない武官」というものである。そういえば光栄の初代三國志では全能力50台の凡将だった。
ただ『華陽國志』では張翼と並び称されているので、ゲーム内でももう少し評価されてもよいのではないかと私は思っている。まあおそらく、それほど飛び抜けた才能がなかったのは事実なのだろう。おまけに長壽であったから、創作の中でその折々の名將を引き立てるダシに使われたのが彼の悲運なのかもしれない。ただ私は彼を贔屓にしているので、ゲーム内では荊州関羽軍閥の副將として、三國鼎立シナリオでは要衝の守將として、晩蜀では一方の方面軍司令官として八面六臂の働きをしてもらうことにしている。
十年ほど前、「魏の人は、廖化のような凡將が先鋒をつとめていると聞き、蜀には人がいないのだと嘲った」というのをどこかで読み、へぇそんな話があるんだ、と思ったことがあった。当時『三國志』『三國演義』を調べたが、そのような字句は見つけられず、なにを根拠にそんなことを言うのだろう、と首を捻ってそのまま忘れてしまった。
最近になってまたこのことを思い出し、この手の流説はだいたい Wikipedia とかいう阿呆の集合知が網羅しているだろう、と思って見てみると、たしかに書いてあった。

この逸話を受けて、中国では人材に乏しい状況を嘆く意で「蜀中に大将なし。廖化を先鋒にする(蜀中無大将、廖化作先鋒)」という諺がある。
うーん。そんな諺があったのかぁ……と思って調べてみると、『繍像小説』という雑誌に掲載された小説「掃迷帚」が初出であるらしい。作者は丁逢甲。字は堃生。

この言葉は、老いた腐儒が若き學徒を罵るのに用いられた言葉である。Wikipedia では「この逸話を受けて」ともっともらしく書かれているが、本文中にそんな記載はない。また「諺」と言うと、なにか長い歴史のなかで廖化の評として定着していたもののように聞こえるが、この小説が掲載されたのは1905年(光緒三十一年)である。三国時代からすればごく最近できた言葉ではないか。
ざっと眺めてみたが、鬼神などの迷信排斥を巡る問答が主体でおもしろいものではない。まったく気が進まないが、行きがかり上かいつまんで紹介しよう。
某書生が熱心に縣誌(地方の歴史)を編纂していた。そんなある日、名も知らぬ汚い面つきの老いぼれ儒者がいきなり書斎に入ってくると、挨拶もせずに東にある椅子にもたれかかった。東というのは本来主人、この場合書生がいるべき場所であるから、挨拶なしと併せ極めて無禮な行いである。そして、薄ら笑いを浮かべながらこう言った。
「好,好,『蜀中無大將,廖化作先鋒』,你這少年,公然充起著述名家來,怪極,怪極。」
廖化にかこつけて書生を罵ったわけで、ここでは確かに廖化が凡人の代表として挙げられている。「好好」は演義好きからすると「よいぞよいぞ」だが、まあここは上くらいの意味であろう。
ところで、この章の題は「志書を修して心裁を獨出し、棒喝を施して茅塞を頓開す」である。だから「地方志を編纂して新しい秩序を構築し、大聲一喝して愚者の心を塞ぐ茅をたちまち開く」のである。つまり書生がこの老儒の蒙を啓くのである。この手の会話形式の説話・小説によくあるが、相方にトンチンカンなことを言う人間を配して、それに反駁しながら著者の主張を述べる、という形式なのである。だから、著者は老儒の言葉を考えの浅い人間の言いそうなこととして書いているのである。
さて、傍らに人無きが如く嗅ぎタバコをやる老人に対し、書生はこう冷ややかに言う。彼は歳こそまだ若いが、進化原理に精通していたのである。
「學問は年齡ではなくその内容によって評価されるべきでしょう。賈誼は弱冠にして『治安策』を著わし*、李長吉は七歳のときに『高軒過』という詩をつくりました*。禰衡や陸贄は二十にもならない若輩者でしたが、孔融や張鑑は長幼の序を気にせず彼らと交わりました。今、私は年若く學もなく、とても禰衡や陸贄と比べるべくもありませんが、御老体よ、あなたの振舞いは孔融や張鑑よりも驕慢で、その器量は彼らに及ばないようですな。なにか反論がございますか?」
* 原文「賈生弱冠上治安疏」。『治安疏』は海瑞の五十前後の作。『治安疏』内にも賈誼が出てくるから混同したのかな。
* 李賀が七歳で髙軒過を作ったことは新唐書に見える。杜甫も七齡思即壯なんて言っているから、これは早熟な詩人を示す慣用句なのだろう。
老儒はさすがに自分の言動が無禮だったと気づいたが、やはり言いたいことがあったのでこう反駁する。
「私がお前を責めるのには理由がある。聞けば、お前は縣誌をまとめるにあたって、『迷信』なんていう章を設け、この縣の風習をそこに書きこんだというではないか。鬼神とは、昔の人がその時代の悪習や弊害を除くために用いたものなのだ。今お前は鬼神を迷信だと言い、それをひとつひとつ潰そうとしているが、そうすれば人々は何も恐れなくなり、秩序・風紀の紊乱を招くであろう」
書生、これこそ守旧派の本音だな、と色を正し答える。
「私はそう思いません。顧炎武は『有道の世ならば、その鬼も神ならず(天下に道があれば、鬼神が人に祟りをなしたりはしない)』と言っています。今世界の文明は日日進歩し続けています。『神權』の二字は二十世紀以後は通用すると思えません。どうして自らを迷信でがんじがらめにして苦しまねばならないのですか。『迷信を打破すると道徳が崩壊するから迷信を保護しなければならない』なんていうのは、渇きを癒やすために鴆毒をあおり、瘡を癒やすために肉を削るようなものです。私は、この機会に迷信を大いに排し、きちんとした教育制度を整備し、同時に徳育を重んじるべきだと愚考いたします。御老公よ、ご心配なさいますな」
老人はこれを聞いて忽然として悟った。
「かたじけなくも教えを賜り、目から鱗が落ちました(辱承教言,頓開茅塞)。私の姓は王、名は存中、字を執一と申しまして、吳江城内に住んでおります(以下略)」
最後の「頓開茅塞」はこの章の題にも使われているが、演義を読んだ人であれば、これが演義の非常に有名な場面、劉備が孔明から天下三分の計を聞いたときの句だと誰でも気づくだろう。
玄德聞言,避席拱手謝曰:「先生之言,頓開茅塞,使備如撥雲霧而睹青天;但荊州劉表、益州劉璋,皆漢室宗親,備安忍奪之?」
「蜀中無大將,廖化作先鋒」はあくまで半可通(だった時)の言葉であって、そんな人物が賢者の言葉を得て「頓開茅塞」される、というスジなのである。わざわざ前だけ切り取って人を貶める言葉として流布させるのは、その無知と悪意に戰慄する思いがするが、最近はそういうのがどうも流行らしい。まあ低劣なゴシップサイトの真骨頂として胸を張るがいいさ。せいぜい今の時を楽しむがいい。ただ望むらくは目の穢れだから眼前から消えてくれることを望む。
ただ上の文脈から離れて見ると「蜀中無大將,廖化作先鋒」という言葉自体は味わい深いものである。廖化は蜀漢の成立から滅亡までをその目で見、洛陽に連行される途中で亡くなった。晩蜀においては、次世代を担うべき人材が出ず、魏の降将や廖化のような老兵が第一線に出なければならなかった。その意味では「蜀中無大將,廖化作先鋒」は蜀の悲哀を感じさせる至言なのかもしれない。
『三國志』巻四十五によれば、諸葛亮の子、諸葛瞻が朝事を司るようになったとき、廖化は宗預を誘って挨拶に行こうとしたという。宗預は「私たちは既に七十を過ぎ、望みはもうこの命を一日でも永らえることだけだ。今さら若輩の門を叩き挨拶に行ってなんになる」と断った。これでは廖化が年甲斐もなく年少の権力者にへつらう者であるかのようであるし、実際この挿話は宗預の傳に書かれているので、廖化は宗預を持ち上げるダシに使われているのである。
廖化が好きな私からすれば、彼はきっと、諸葛瞻が後事を託せる人物かどうか、その器量を一緒に見極める老同志が欲しくて宗預を誘ったのだろう、と思ってしまう。そして、自ら心を傾けた季漢の滅亡を見なければならなかった彼のことを思えば、彼を凡人と罵ることのいかに心を缺いた行いか分かろうというものだ――まあこれはこれで贔屓の引き倒しなのだろう。ただ、ろくに知りもしない漢を凡人と罵るよりはいくらかマシではないだろうか。
補記:なおこの言葉は民初の小説「如此京華」にも出てくる。作者の葉楚傖が「掃迷帚」から採ったのか、それとも清末の講談師で「蜀中無大將,廖化作先鋒」と言った者がおり、両者がそれを聞いて採用したのかはわからない。いずれにせよ「掃迷帚」より前には見えない新しい言葉である。
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