刑務所のにおい

 駆け出しのころの記憶――。

 精神科の研修中、指導医が刑務所に往診に行くというので「僕も行きまーす!」とカバン持ちを買って出たことがあった。

「入ったことないんですよ!どんなところなんでしょうね?」

 バスの後部座席に揺られつつ、私はしきりに指導医に話しかけた。彼は窓の外に目をやり「そうだね。まあ、いちど行ってみれば分かるかもね」とだけ言った。言質を与えない声音だった。

 やがてバスは「***小学校前」に停まり、私たちはそこから十分ほど歩いた。ごくふつうの市街地のなか、唐突に高い塀が立ち上がっていた。四方を拒絶する壁の色は、天気に関係なく湿って見える色だった。私は思わず足を止めたが、指導医は迷いなく門扉に向かい、インターホンにひとこと、ふたこと言った。脇の通用門がガラガラと開き、私たちは***刑務所に迎え入れられた。

「なんだ。案外簡単に入れるものですね!」

 私ははしゃいでいた。門番の看守は髪に白いものを蓄え、にこやかに私と指導医を見くらべた。

「おや、今日は若先生をお連れで?」

「うちの研修医。何かの経験になるだろうと思ってね」

 看守ははあはあ、と相づちを打ち、それから私に向き直って笑った。

「センセイ、ここはね、入るのは簡単なんですよ。入るのはね」

 薄い冗談だったが、舌に小石が触れたような感触を残した。

 廊下を進み、すこし広めの一室に通された。ここが今日の診察室らしかった。金属製の机、拭き跡の筋を残すビニール床、壁にかかった時計の秒針が軽く鳴る。やがて受刑者が一人、看守に伴われて入ってきた。三十代半ば、刈り込みの浅い頭、頬に刃物傷のような古い線があった。彼は椅子の縁に体を載せ、落ち着かない手つきで袖をいじった。

 彼はぽつりぽつりと言った。夜になると、天井のうすい模様が動きだすこと。他の房の寝返りが壁を渡って伝わってくること。刑期を数えるたび腹の底が冷たくなること。残した妻子の顔が、眠りに落ちる直前にだけ鮮やかになること。言葉は脈絡に乏しく、やがて同じ場所を旋回しはじめた。看守が唐突に吠えた。

「コラ! 先生の前でなんだその態度は!」

 彼の吠え声は、室内のものすべてを一瞬だけ硬質にした。私は背筋を正した。受刑者はびくりと肩を揺らし、「すみません」と言ってから、今度は喉の奥に言葉を押し込めた。

 指導医は平生のとおり問診を続け、最後に短く指示を書いた。私は横から小声で尋ねた。

「ここでは眠剤を、あっさり処方するのですね」

 指導医はペンを置き、少しだけ視線を私に寄越した。

「そうだね。ここでの暮らしは、私たちが想像するよりずっと苛酷だから――せめて眠りだけでも保証してやらないといけない」

 返事の形をした線は、私の胸にひっかかったままだった。

 数人の診察が終わると、彼は思い出したように、

「ちょっと書類を忘れていてね。事務のところに寄ってくる。ここで待っていてくれ」

 私はひとり残された。ストーブの上でやかんがかすかに鳴っていた。鉄と古いワックスと消毒薬の匂いが混ざっていた。私は不意に、「小学校の匂いだ」と思った。ぞうきんの湿り、廊下の油、冬の教室の息の白さ。

 不意に遠くの広場から歓声が聞こえた。運動の時間らしかった。窓の外、塀の中で、人の群れが規則正しく動く影になっていた。囹圄の彼らと私の違いは何だろうか――鍵、名札、時間。いや、今ここで数えあげても、私がいま扉のこちら側にいるという事実を、ただ手触りよく磨くだけだ。

 どれだけ時間が経ったのだろうか。気づいたとき、あの看守が扉口に立っていた。

「ここはどこか、小学校のにおいがしますね」

彼は薄く笑った。

「ええ、子どもも彼らも、同じように並ばされますからね」

私は喉を衝かれた。

「そろそろ扉を閉めますよ。センセイ、どちらを選ばれますか?」

「あ、はい、それは、もちろん」

 私はあわてて戸をくぐった。背後で重い錠の音が響いた。金属の歯が噛み合う音は、重く、私の肺腑に長く残った。


 帰りのバスの中、胸ポケットの中のボールペンがやけに重く、私は頭を垂らし横目に風景を眺めた。

 窓の外では夕暮れの街路樹がゆらぎ、信号待ちの列に車が沈黙を連ねていた。人影が歩道を横切るたび、笑い声や会話の切れ端が風に混じって流れていく。そのなかに、嬌声がひときわ高く響いた。ランドセルを揺らしながら駆けていく姿が一瞬だけ車窓をよぎり、私は思わず顔を上げかけ、また視線を落とした。耳の奥では、さきほど背後で噛み合った錠の音がまだ残響していた。


 子どもたちの声は軽やかに遠ざかり、街の匂いと混じって過ぎていった。それでも胸に沈むボールペンの重さは動かず、鉄とワックスのにおいだけがなお私の衣に絡みついていた。あの塀の内側と外側を分ける境界線は、結局いまも私の中で閉じたままだった。

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