李世民は父の乳を吸った――どの乳を?

 史書を読んでいて登場人物の正気を疑うことは時々あるが、つい先日も職員食堂でワカメごはんを噴き出しそうになったことがあった。元兇は『資治通鑑』唐紀、玄武門の変で李世民が兄の皇太子李建成と弟の李元吉を殺害したあとのくだりである。

上乃召世民,撫之曰:「近日以來,幾有投杼之惑。」世民跪而吮上乳,號慟久之。

『資治通鑑』巻百九十一

高祖は李世民を召し、撫でながら言った。「最近よからぬ者の讒言に惑わされてお前のことを誤解していたようだ」李世民は跪いて高祖の乳を吸い、久しく慟哭した。

 このとき、高祖は六十過ぎ、李世民は三十前である――真っ昼間から中年男が老父の乳を吸っている様子を想像してしまい、思わず噴きそうになったのである。

 さらに悪いのは、相手が高祖李淵だという点である。なぜなら高祖の体には乳が三つあったと『新唐書』に書かれているのである。李世民はいったいどの乳を吸ったんですかね。

仁公生高祖於長安,體有三乳,性寬仁,襲封唐公。

『新唐書』本紀

「ヒトに乳房が三つもあるか、牛じゃあるまいし」と思われるかもしれないが、このこと自体は別に珍しいことではない。

『外科病理学 第5版』文光堂, 2020年, p1220

 ヒトの乳腺は外胚葉由来で、胎生4週頃に腹側に乳腺隆起 milk line と呼ばれる結節状隆起が生じ、そこから乳腺芽という原基が形成される。これは生まれた直後には索状のしこりとして触れられるが、一ヵ月ほどすると左右の乳房を残して消えてしまうのが普通である。しかし時にその退縮が不十分なことがあり、乳腺組織が残存することがある。これを副乳と呼ぶ。英語では accessory/supplementary mammary tissue や polythelia といった呼び名がある。

 頻度は100人あたり女性で2-6人、男性で1-3人、と多くはないものの極めて稀というわけではなく、また日本人を含むアジア人ではさらに頻度が高い。ときどき形成外科などで切除され組織学的検索に回されるので、病理医からすると「ああ」くらいの感想である。もちろん乳癌ができることもある。

 三乳、四乳は古代においては貴相として扱われたようで、たとえば『淮南子』脩務訓に「周の文王には乳が四つあった。これを大仁という(文王四乳,是謂大仁)」とある。志怪小説『括異志』にも四乳の樊預という人が出てきて神様になっている。

 『宋史』には、范鎮が兄范鎡の遺腹の子を探しあてたとき「私の兄は人と異なり、体に乳が四つありました。その子もまたそうに違いありません」と体をあらためたところ果たしてその通りであったという話が書かれている*。この残存乳腺組織は一部家族性に認められることもあり、現代でも三世代にわたって副乳が存在した家系が報告されている。むろん親にあれば必ず子にあるというものではないが、この『宋史』の記述は家族性症例の古い記録なのかもしれない。
『宋史』巻三百三十七「兄鎡,卒於隴城,無子,聞其有遺腹子在外,鎮時未仕,徒步求之兩蜀間,二年乃得之,曰:『吾兄異於人,體有四乳,則兒亦必然。』已而果然,名曰百常。」

 中国の例ばかり挙げたが、本邦でもこのことは知られていた。たとえば『甲子夜話』では「生月(いつき、長崎県の島)の男に、両乳の下にも二つの乳がある者がいる。下の乳は上より小さいとのことである」と書かれている。靜山は四乳の話をいくつか見聞きする機会があったらしく、「必ずしも珍しくはないんだな」と感想を述べている(三篇巻十八)。

 その副乳はどこにできるかというと、当然ながら元となる乳腺隆起に沿って存在することが多い。胸部の本来の乳房の下に小さく見られることが最も多く、腋窩がそれに次ぐ。鼠径部に見られることもある。李世民がどの乳を吸ったか肝心なところは記録されていない


 そろそろまじめにやろうか。

 この「李世民は高祖の乳を吸った」云々だが、念のため『舊唐書』『新唐書』を確認したものの、そんな話はどこにも書かれていないようである。
* 『舊唐書』巻六十四「乃命召太宗而撫之曰:『近日已來,幾有投杼之惑。』太宗哀號久之。」
* 『新唐書』巻七十九「乃召秦王至,尉撫之曰:『朕幾有投杼之惑。』秦王號泣不能止。」

 玄武門の変で李建成、李元吉兄弟は殺害され、その子らも皆殺しにされた。高祖からすれば李世民は次男であるとは言え、子二人、孫十人を殺した存在でもある。おそらく、羊羔跪乳(羊の子は親の恩を思い、乳を飲むときは親に跪く)のような俗信を用いて、父子の和解を演出するつもりで涑水先生はこんなことを書き加えたのかもしれない。同時に実際には有りえなさそうな儀式にすることで、両者の関係の白々しさを際立たせようとした、とは考えすぎだろうか。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!
  • URLをコピーしました!
目次