本から車が飛び出てくるぞ!

 初めて自分のこづかいで買った本のことはよく覚えている。

 場所は梅田の旭屋書店、エスカレーターを降りてすぐ右手の文庫本コーナーで、買った本は遠藤周作の『ぐうたら生活入門』である。

 帰る段になり、階段で買った本を父に見せると、父はすこし首をかしげて「こいつ大丈夫かな」という顔をした。たしかに小学生の息子が初めて買った本が『ぐうたら生活入門』であれば、その行く末を案じてああいう顔になるのはしかたない。


 そんなぐうたら息子の私もいっちょ前に本を開いて勉強なんぞしたことがあった。そんなとき父はいつもうしろから冷やかしながら「苦労苦労。勉強したら本の中から車が飛び出てくるぞ!」などと冗談を言ったものである。当時は意味がよく分からなかったが、今となって思えばこれは宋の眞宗の「勸學篇」である。『古文真宝』冒頭に掲載されたこともあり、わが国では案外と人口に膾炙しているらしい。

  富家不用買良田  家を富ますに良田を買ふを用ひず
  書中自有千鍾粟  書中自ずから千鍾の粟あり
  安居不用架高堂  居を安んずるに高堂を架するを用ひず
  書中自有黃金屋  書中自ずから黃金の屋あり
  娶妻莫恨無良媒  妻を娶るに良媒なきを恨むなかれ
  書中有女顏如玉  書中自ずからかんばせ、玉の如きあり
  出門莫恨無人隨  門をいづるに人の隨ふなきを恨むなかれ
  書中車馬多如簇  書中車馬多くむらがるが如し
  男兒欲遂平生志  男兒平生の志を遂げんと欲さば
  五經勸向窗前讀  五經勸めて窗前にむかうて讀め

家を富ますに良田を買う必要はない。
 本を読めば中からたくさん俸禄が出てくるぞ!
いい暮しをしたければ高屋を造る必要はない。
 本を読めば中から黄金の豪邸が出てくるぞ!
妻を娶るに良縁がないと嘆く必要はない。
 本を読めば中から玉の如き美女が出てくるぞ!
出かけるのに従者がいないことを憂う必要はない。
 本を読めば中から車馬がぞくぞく出てくるぞ!
男児立身出世の志を抱かば、五經を取って窓に向かって苦心して読め。

 こうして読み直すとずいぶん俗悪に過ぎる文である。公と相となりて府中の居に潭々たれと父が本気で思っていたわけもあるまいが、あのとき父が笑っていたのは、いくら息子にハッパをかける言葉にしてもあんまりだと思ったからだろう、と随分あとになってから気づいたのだった。

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