酒を呑んでひっくりかえる

 俗に「世の中に寝る程楽は無かりけり」と言うけれども、なかでも酒を呑んでいい気分のまま横になるのは格別である。

 世に同志は多いとみえて、唐の詩人に曰く――

 秋醪雨中熟  秋らう 雨中に熟し
 寒齋落葉中  寒齋かんさい 落葉のうち 
 幽人本多睡  幽人わびびと もとより睡り多し 
 更酌一樽空  更に一樽を酌んでむなしうす

  秋じこみの濁酒が雨降りの中で熟れ、
  私の侘しい住処には落葉が一面散り敷く。
  世捨て人の私はもともとよく眠るのだ。
  ましてや杯を重ね、酒樽を一つ空にしたのだから。

落葉をたたく秋雨に誘われ、ひとりで一樽を空けてしまったほのかな悔恨と陶酔に身をゆだねつつ、枕上に雨音を聞く――酒飲みには馴染みのある感傷である。

 杜牧のように独りで酌をかさねるのも悪くないが、大勢で「祝杯」「酒追加」「祝杯」「酒持って来いがまことの恋よ」と杯を乱すのもまた楽しいものである。

 ただ、中年の声を聞こうとするころから、酔いの回りとともに眠気の回るのも早くなった。

 宴会がお開きになり「先生も一曲」とカラオケに誘われても、ソファで舟を漕いでいることが多くなった。あんな大音響のなか寝られるものかと思うかもしれないが、案外と心地よいものである。そして後の祭も終わるあたりで起き出し、早朝の冷気を吸いこみながら、長時間のカラオケで疲れた皆を扶けつつ始発電車で三々五々帰るのである。 「また月曜に!」と手を振り、どこか力なく手を挙げる同僚の後姿が朝霞に消えてゆくのを見届けてから、おもむろに踵を返すのである。 


 中年男となった私が『東坡志林』を読み返していたとき、この一節を見て、若い頃に覚えた疑問に解が与えられたような気がした。

南嶽李巖老好睡,眾人食飽下碁,巖老輒就枕,閱數局乃一輾轉,云:「君幾局矣?」
東坡曰:「巖老常用四腳碁盤,只著一色黑子。昔與邊韶敵手,今被陳摶饒先。著時自有輸贏,著了並無一物。」
歐陽公詩云:「夜涼吹笛千山月,路暗迷人百種花。碁罷不知人換世,酒闌無奈客思家。」殆是類也。

『東坡志林』巻一「題李巖老」

 宋のころ、南嶽出身の李巖という寝るのが好きな爺さんがいた。

 宴会が果て、皆が飲み食いに飽きて碁なぞ打ち始めると、彼はいつも枕を引き寄せて眠ってしまうのだった。

 そして碁が数局が終わったころ起きだして「おぬしは何局打ったかのう?」と尋ねるのだ。

 彼もまた夢の中で四脚の碁盤を用いて碁をうっており、昔は邊韶が好敵手であったが、最近は陳摶と勝ったり負けたりしている。むろんその対局も夢から醒めてしまえば霧のように消えてしまうのだが。

 二十の私には不可解だった。なぜ、李巖じいさんは現世うつしよではなく夢中に碁敵を求めたのだろう。

 二十の私は訝しんだ。李巖じいさんが定先で黒を持っていたのなら、今生に敵がいなかったというわけではあるまい。好敵手の邊韶も陳摶も、棋士として名のあった人ではない。なぜ彼らなのだろうか。


 四十を超えた私が思うに、李巖先生は喧噪の中で寝るのを好んだのさ。わからなかったのか、お前は。なんと愚かな。邊韶も陳摶も仮睡を愛したひとではないか。

 蘇軾がなぜ欧陽脩のこの詩を引いたか考えてみるがいい。この詩は『述異記』の「爛柯」を踏まえていることは明らかではないか。

 夜涼吹笛千山月
 路暗迷人百種花
 碁罷不知人換世
 酒闌無奈客思家

  夜涼しくして笛を吹く 千山せんざんの月
  みち暗くして人を迷わす 百種の花
  碁おわりて 人の世のわれるを知らず
  酒きて 客の家を思うをいかんとするも無し

ひとりの木こりが、涼しい夜風に吹かれ、笛の音が流れる山中を月のあかりを頼りに歩む。道は暗く、花の香りに誘われるまま迷いこんだ先には、二人の童子が碁を打っていた。傍らで碁を見ているうち時を忘れ、はたと気づいたときには、置いていた斧の柄は腐り落ちていた。既に長い長い時間が経っていたのだ。そして夢から醒めたとき、もう自分の帰る家はなくなっていた――そう、李巖先生はきっと不安だったのさ。夢が醒めたあとの漆黒の静寂を懼れ、自分がまだこの世間に辛うじて居場所があり、知る人が周りにいることを確かめたくて、すぐ目が醒めるよう衆人のなかごろっと横になり、束の間の夢の中で碁をうっていたのさ。

 ああ、李巖先生。そういう、ことだったのですね。

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