首相「うちの国が滅んでも」

 炎興元年(263年)、蜀は魏に攻められて滅亡し、後主劉禅は洛陽に移り住んだ。

 『洛陽伽藍記』を読んでいたとき、洛陽における劉禅の屋敷のことが出てきた。伽藍記によると、洛陽東陽門の外二里、暉文里という所に劉禅の邸宅があったらしい。そして隣は孫皓の屋敷であったという。私は亡国の主二人がどんな思いで顔を合わせたのかちょっと妄想したが、呉が降伏して孫皓が洛陽に移った頃には劉禅は既に亡くなっていたので、両者が会ったことはなかったはずである。原注を見ると、劉裕が洛陽を一時的に回復した時にはまだ二人の屋敷跡が残っていたらしい*。
*「戴延之西征記曰東陽門外道北吳蜀二主第宅去城二里墟基猶存」

楊衒之 入矢義高訳注『洛陽伽藍記』平凡社東洋文庫より

 洛陽に移送されたあとの劉禅についてはロクな話が残っていない。『三國志』注に引く『漢晉春秋』によれば、蜀の音楽が奏され歌妓が舞っているのを見て蜀の旧臣が落涙したときも、劉禅は笑っていたとされる。彼が「無情」と呼ばれる所以である。

 これに材を採った劉禹錫の詩に「蜀先主廟」というものがある。

天地英雄氣  天地 英雄の氣
千秋尚凜然  千秋 尚凜然りんぜんたり
勢分三足鼎  せいは分かつ 三足の鼎
業復五銖錢  ぎょうは復す  五銖の錢
得相能開國  しょうを得て能く國を開くも
生兒不象賢  兒を生みて賢に
凄涼蜀故妓  凄涼せいりょうたり 蜀の故妓
來舞魏宮前  きたり舞う  魏宮の前

天地を蔽う英雄の気は千年経った今でも凜然として私の前に迫ってくる。
劉備の勢力は天下を三分し、その志は漢を再興せんとした。
諸葛亮を得て宰相とし、よく蜀漢の国を開いたが、
ああ、惜しいことに、その子劉禅は父に及ばぬ不肖の子であった。
国が滅び、蜀の歌妓が魏の宮殿で舞わねばならなくなったとは――
(なんと悲しい運命であろうか)

 田中角栄について書かれた本を読んだとき、彼は揮毫を求められると「天地英雄氣 千秋尚凜然」としばしば書いた、という記述を見て驚いたことがある。

 この句は字面だけ見ると「英雄の壮大な気概はどれだけ年月が経っても消えることがない」といった意味になるかもしれないが、もとはあくまで亡国を悼んだ詩である。出典とあわせると、一国の宰相が「国が滅んで千年たっても天下には私の気概が横溢しているぞ」と言ったことになる。なにかおそろしく悪い冗談のように思えるが、側近連中は誰も止めなかったのだろうか。

 私は共産化前の中国の文物は比較的好きだが、中国はあくまでヨソの国である。我が国の文化が大いにその影響下にあったことは確かだが、漢字なんぞをありがたがることの愚はもっと知られてよい。漢字で書かれているから何か高尚なことのように考えるのは、なべて白痴の言である。さぞかし司馬昭も周恩来も「与しやすき者」と笑みを浮かべたことだろうさ。

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