戸の口に宿札なのれほとゞぎす

 天和期の芭蕉の句に

戸の口に宿札なのれほとゞぎす

というものがある。芭蕉集を眺めていてすこし気になったので、書き留めておく。

 まず冒頭の「戸の口」について。これは家の戸口とぐちと、地名の戸口とのくちをかけてある。戸口とのくちは猪苗代湖の西北岸、日橋川にっぱしがわの上流にあり、かつて江戸に米穀を運ぶ舟が多くここを通ったという。翁島村を経て今は猪苗代町に含まれる。なおこの句は陸奥名所句合によるもので、実際に戸口とのくちを訪れての句ではない。

 次に「宿札なのれ」について。まず「なのれ」だが、これは名を「名乗る」ことと、鳥や虫が鳴くことをあらわす「なのる」をかけたものである。後者の例としては、枕草子の「ねぶたしとおもひてふしたるに、蚊のほそごゑにわびしげに名のりて、顔のほどにとびありく。 羽風さへその身のほどにあるこそいとにくけれ」などが挙げられるだろう。

 私が少しひっかかったのが「宿札」である。

 「宿札」にはふたつの意味がある。ひとつは、参勤交代などで街道を往来する大名や貴人が宿泊・休憩する際に、本陣や宿場の入口に掲げた名札である。関札とも呼ばれる。もうひとつは、今で言う表札・門札である。

 前者ならば、時鳥はひとときの客である。「この家を訪れたのなら、戸口とぐちの宿札に大きくその名をしめすように、ほととぎすよ鳴いていってくれ」という意になろうか。

 後者ならば、時鳥は戸口とのくちに棲む者である。「戸口とのくちがお前のすみかならば、ほととぎすよ、高らかにその名を名乗るがいい」くらいか。

 天和年間に「宿札」を表札・門札の意に用いた用例がどれくらいあるかはわからないが、どちらの解釈も成り立つように思われる。私はどちらかと言うと前者の方が好きだが、先にも述べたとおり、この句は陸奥名所句合によるものだから、芭蕉の意は後者にあるのかもしれない。


 宿札についていくらか補足しておこう。

 J. C. Hepburn の「和英語林集成」では宿札を以下のように説明している。

YADOFUDA ヤドフダ 宿札 n. A sign inscribed with the name of the occupant or lodger and hung at the entrance of an inn.

Japanese-English and English-Japanese Dictionary , 7th ed.

 読みは「やどふだ」でいいようだ。また『日本社會事彙』によれば、宿札の大きさは「長三尺五六寸幅一尺位」(約133×38 cm)であり、「凡一丈五六尺もあるべき竹」の先に懸けて用いたという。

 諸侯は、宿札をあらかじめ作製し本陣に預けておく。宿札は貴人の名前が記されたものであるから、普段は高棚にのせて燈明神酒をなどをお供えする。宿泊や休憩の連絡があった際は、本陣の主人は速やかに宿札を掲げ、また予め拝領した上下を着て諸侯を迎えに出るのであった。なお、宿札は基本的に宿泊者が作製するものであるから、敬称はつかない。「毛利安房守宿」「出雲少将室」「仙台中将」といったぐあいである。右に小さく日附を記すこともある。

 ひとたび宿札が立つと、本陣はその大名の占領下のようになり、他の大名らは避けて通るしかなかった。大名自身ではなく家臣が泊まっているときにも、他の者があとから宿泊を希望した時は、先に宿札を立てた者の許可を取る必要があった。江戸時代においては、この宿札は諸侯同士の争いを避けるために必要なものであった。

 まだ豊臣家が残っていた時代、木村長門守(木村重成)が秀頼の命を受けて家康に使いしたときのことである。その帰途、重成は福島正則の陣所の前を通りがかった。そうとは知らず重成が馬に乗ったまま通り過ぎようとしたところ、正則の足軽がこれを見咎め、重成を馬から引きずり下ろしただけでなく、散々罵倒するといった事件が起こった。重成は平謝りしてその場を穏便に取り繕ったが、復命し用を全て済ませた後になって、「さて本日福島正則の陣所で数々の無礼を働かれました。主命の途中であったため、一言も抗弁せずに済ませましたが、主命を果たした以上は、これより正則を討ってこの恥辱を雪ぎたいと存じます」と家臣を集め兵を繰り出そうとした。正則はそれを聞いて初めて何が起こったか知り、事情を聴取したうえで、それは気の毒なことをした、と当日番所に詰めていた足軽六人の首を刎ね、それを送り届けて重成に謝罪した。しかし重成がなかなか承服しないので、やむをえず当日の責任者である物頭を切腹させ、その首級を送ってやっと事態を収めたという。

 家康はこのことに懲りて、陣所の入口または駅の端に各自の名札を立てさせるようにしたのが、宿札の始まりである――と『想古録』は続けるが、疑わしい。太平記に「大衆かかるべしとは思もよらず、我前われさきに京へいつてよからんずる宿をも取、財宝をも管領せんと志て、宿札共を面々に二三十づゝ持せて、まづ法勝寺へぞ集りける」云々とあるし、この手のものは宿泊を専らにする施設ができた時からある、と考えた方が自然だろう。

 また変わった使い方としては、病人がいる家では病魔を追い払うために「鎮西八郎為朝御宿」のような宿札を掲げるといった風習もあったとのことである。

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