星をみる魏延

 むかし光栄三國志の攻略本に「劉備・関羽・張飛の贋者で新勢力を作り、どちらが本物か争う」なんていう趣向のリプレイがあった。たしかIIのころではなかったか。「あいつらこそニセ者だ」と贋者の方が筋違いの闘志を燃やしているあたりがおもしろかったが、残念ながら結末は忘れてしまった。

 ゲームでは同姓同名の人物を新たに登場させられないので名前を少しもじっていたはずだが、現実の方は別にそういった制限はないので、蜀の馬忠と呉の馬忠や蜀の呂布が同時代に存在していたりする。また後世まで範囲を広げると、日本人よりも姓のバリエーションが少ないこともあってか、同姓同名の人物はあまり珍しくない。なお、中国では先祖の名を侵すことは基本的にないので、同姓同名なら逆に直接の子孫ではないということになる(むろん何事も例外はある)。というわけで、史書を読んでいて見つけた三國志の登場人物の同姓同名さんを何人か紹介しよう。

宋でもやっぱり忠義な趙雲将軍

 『宋史』牛皐傳によれば、秦檜によって主導された金との媾和が破れたとき、岳飛は部将牛皐らに命じて河南を攻略させ、梁興を河東に派遣したとある。その時梁興に協力した兩河の豪傑として趙雲の名が挙がっている。

梁興會太行忠義及兩河豪傑趙雲、李進、董榮、牛顯、張峪等破金人于垣曲,又捷于沁水,追至孟州之邵原,金張太保、成太保等以所部降,又破金高太尉兵于濟源。

『宋史』卷三百六十八 列傳第一百二十七

梁興は、太行山の忠義社および兩河の豪傑趙雲、李進、董榮、牛顯、張峪らとともに金軍を垣曲・沁水において破り、それを追撃して孟州の邵原に至った。金の張太保、成太保らの軍が投降し、また金の高太尉の軍を濟源で撃破した。

 私は最初「曹操(羅汝才)」のように渾名かなにかかと思ったが、どうもそうではないようだ。この趙雲は『續資治通鑑』紹興四年(1134年)にも出てくる。

丙寅,初,河東忠義軍將趙雲嘗出兵與敵戰,至是敵執其父福及母張氏以招之,且許雲平陽府路副總管,雲不顧,遂殺福,囚張氏於絳州。久之,雲間道奔岳飛軍中。既而飛遣雲渡河,雲因擊垣曲縣,復取其母。飛以為小將。

『續資治通鑑』高宗受命中興全功至德聖神武文昭仁憲孝皇帝紹興四年

紹興四年十一月二十一日(西暦1134年12月8日)、河東の忠義軍將趙雲がかつて金軍と戦った時、金は趙雲の父・趙福と母・張氏を捕らえて彼に寝返るよう持ちかけ、寝返れば平陽府路の副總管にしてやろうと言った。しかし趙雲はその誘いを一顧だにしなかったので、ついに父の趙福は殺され、母の張氏は絳州に監禁された。その後、趙雲は間道を伝って岳飛の軍に投じた。岳飛は趙雲に命じて河を渡らせ、趙雲は垣曲縣(絳州)を攻撃し母親を奪回した。岳飛は彼を小將とした。

誘降を頑として撥ねつけるあたりが趙雲らしい(別人であるが)。

星をみる魏延

 前秦の苻堅に仕えた太史令魏延の名が『晋書』に見える。太史令は天文暦算や国家の記録を掌る太史の長官で、司馬遷なんかが有名である。

是歲,有大風從西南來,俄而晦冥,恆星皆見,又有赤星見於西南。太史令魏延言於堅曰:「于占西南國亡,明年必當平蜀漢。」堅大悅,命秦梁密嚴戎備。乃以王猛為丞相,以苻融為鎮東大將軍。代猛為冀州牧。融將發,堅祖於霸東,奏樂賦詩。堅母苟氏以融少子,甚愛之,比發,三至灞上,其夕又竊如融所,內外莫知。是夜,堅寢於前殿,魏延上言:「天市南門屏內后妃星失明,左右閽寺不見,后妃移動之象。」堅推問知之,驚曰:「天道與人何其不遠!」遂重星官。

『晋書』

この年、西南の方角から強風が吹き、空がにわかに暗くなって一面に星が現われた。また西南には金星が光っていた。太史令の魏延は苻堅に言上した。
「これは西南の国が滅びる予兆です。来年には必ず蜀漢を平定なさるでしょう」
 苻堅は大いに喜び、秦・梁の守りを堅くさせた。
 苻堅が王猛を丞相に任じたとき、苻融を鎮東大將軍とし、王猛に代わって冀州牧とした。苻融の赴任にあたって苻堅は霸東で送別の宴を催し、音楽を奏で詩を賦した。苻堅の母の苟氏は末っ子の苻融を溺愛し、赴任途上の苻融に会うため何度も灞上を訪れており、その日の夕方も密かに苻融の所にいた。このことは誰にも知らせていなかったが、夜、苻堅が前殿で寝ていると魏延がこう言上した。
「天市南門屏内の后妃星が明るさを失い、側仕えの宦官も姿が見えません。これは后妃がどこかにいらっしゃっているしるしです」
 苻堅が調べさせたところ果たしてその通りであったので、驚いて「天文のことわりはなんと人の行いと深く結びついていることだろうか!」と言い、以来占星官を重んじるようになった。

演義で孔明の延命の祈祷を邪魔したことを悔やんで、転生してから占星術を学んだのかな?(いやだから別人だって)

 ところで「是歲,有大風從西南來,俄而晦冥,恆星皆見,又有赤星見於西南。」という記述からは日食があったようだが、これは正確にはいつのことなのだろうか。

『晋書』の日蝕の箇所を見ると、前後に以下のような記載がある。

  • 海西公太和三年九月戊辰夜,二虹見東方。
  • 四年四月戊辰,日暈,厚密,白虹貫日 中。
  •   十月乙未,日中有黑子。
  • 五年二月辛酉,日中有黑子,大如李。
  • 六年三月辛未, 白虹貫日,日暈,五重。
  •   十一月,桓溫廢帝,即簡文咸安元年也。
  • 簡文咸安二年十一月丁丑,日中有黑子。

 強風については『晋書』に「海西公太和六年二月,大風迅急,是年被廢。」とあるので太和六年二月から三月にかけてのことだろうか。ただ太和六年三月辛未は西暦371年4月3日だが、NASAのウェブサイトにその日蝕のことは記されていない。西暦371年2月2日には金環日食があったようだが、これは太和六年一月一日である。うーん。ちょっとよくわからん。

おまけ:

左が金星で右が后妃星である(大嘘)

張遼のバケモノ退治

 「江夏の人で字が叔高」な張遼 is 誰。

魏,桂陽太守江夏張遼,字叔高,去鄢陵,家居,買田,田中有大樹,十餘圍,枝葉扶疏,蓋地數畝,不生穀。遣客伐之。斧數下,有赤汁六七斗出,客驚怖,歸白叔高。叔高大怒曰:「樹老汁赤,如何得怪?」因自嚴行復斲之。血大流灑。叔高使先斲其枝,上有一空處,見白頭公,可長四五尺,突出,往赴叔高。高以刀逆格之,如此,凡殺四五頭,並死。左右皆驚怖伏地。叔高神慮怡然如舊。徐熟視,非人,非獸。遂伐其木。此所謂木石之怪夔魍魎者乎?是歲應司空辟侍御史兗州刺史以二千石之尊,過鄉里,薦祝祖考,白日繡衣榮羨,竟無他怪。

『捜神記』巻十八

魏の桂陽太守、張遼は字を叔高といい江夏の人である。彼が鄢陵縣(許昌の東)に転居し田畑を買ったとき、田の中に十抱えほどもある大木があった。枝葉が広く生い茂り、周りが日陰になって作物が育たないので、彼は人に命じて木を切らせた。斧を何度か振り下ろすと、切口から赤い液体が六七斗も流れ出たので、その人は肝を潰して帰って張遼に報告した。張遼は大いに怒り
「古い樹だから赤錆でも出たんだろう。何を恐れることがあろうか!」
 と言い、自ら赴いて樹に切りつけたところ、血がどくどくと流れ出した。叔高はまず枝を刈らせたところ、樹の上に空洞があり、そこから白髪で身長四、五尺の化物が飛び出てくると、張遼目がけて襲いかかった。張遼は刀を抜いて逆に迎え撃ち、化物を四五人殺した。周りの者は恐ろしさのあまり地面にひれ伏したが、張遼は顔色ひとつ変えず平然としていた。そして殺した化物をよく見ると、人ではなく、獸でもなかった。遂に樹は切り倒された。これが(『國語』に言う)「木石の怪は夔(ひとつ足の化物)、魍魎(山川の精霊で人に害をなす)である」というものであろうか。
 この年、張遼は司空に上げられ侍御史および兗州刺史を兼ね、二千石を賜った。そして故郷に帰って先祖を祭ったが、まさに得意の極みといった様子であった。そしてついに何の祟りも起きなかった。

 「木の中からバケモノが飛び出てきた」なんてのはつくりばなしだが、切口から血のような赤い水があふれたというのはありえることである。これは木の中心部が腐って雨水がたまったものである。

 やっていることは張遼のイメージ通りなのだが、「魏の桂陽太守」「字が叔高」「江夏の人」「司空、侍御史および兗州刺史になった」はことごとく合わないというか支離滅裂なので、やはり別人だろうか。モデルになった人がいるのかと思って調べてみたが、よくわからなかった。まあおそらく張遼の名を借りた創作上の人物なのだろう。

スネ夫な張嶷

 『晋書』羊聃傳に、当時の四天王の一人として張嶷が出てくる。四天王と言ってもサイアーク、ゴクアーク、キョウアーク、レツアークの方である。

散騎郎高平張嶷以狡妄為猾伯。

『晋書』羊聃傳

散騎郎で高平出身の張嶷は、ずる賢く嘘つきであったため「猾伯スネ夫」と呼ばれた。

ほかはフードファイター江泉、スーパーデブ史疇、ゲスの極み羊聃である。

 『隋書』張衡傳によれば、その先祖に北魏の河陽太守、張嶷がいたとされる。また『宋史』によれば、張說の子は張嶷といい明州觀察使になっている。

ちょい役徐庶

 『南齊書』王敬則傳に、王敬則の城局參軍として徐庶が出てくる。王敬則は晉陵南沙の人。「三十六計逃げるにしかず」で有名な人である。南齊の高帝、武帝に仕えてたびたび武勲を立てたが、明帝の代になると疎まれるようになった。明帝が死の床に就いたとき、猜疑心が強い彼は王敬則が叛くのではないかと疑い、張瑰を平東將軍、吳郡太守に任じ警戒させた。王敬則の子らは恐れおののき徐嶽を派遣して謝朓(王敬則の娘を妻としていた)に計を図らせたが、謝朓は逆にこれを捕らえて明帝に突き出したのであった。徐庶の家は京口にあったためいち早くこのことを知り、王公林を通じて王敬則に通報した。うん。これだけである。王敬則は兵を挙げたが敗死した。

 あと私が知っているところでは、『漢書』『後漢書』に王平が、『晋書』に龐統が、『宋史』『明史』に楊儀がいるが、いずれも徐庶と同じくチョイ役である。いやまあ別人だから何の問題もないのだが。あと周公謹というと私はどちらかと言えば周密(宋末の文人)をまず思い浮かべる。


 後日、明の余寅による『同姓名錄』という本を見つけた。これによると、他にも李典、李通、黄忠、劉封、劉琦、劉琮、王肅、孫登、張翼などにも同姓同名の人がいるようである。ヒマな人は掘ってみると面白いかもしれない。

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