赤福の創業は宝永年間なのか?

 久しぶりに実家に帰ったとき、居間に小さな盾が飾ってあるのを見つけた。小学生の頃に修学旅行みやげとして買ったものである。プラスチックの盾にひとつ模造真珠がくっついた安物だが、よくもまあ残っていたものだ。

 今は広島や北陸などいろんな所に行くらしいが、私の頃は大阪の小学生の修学旅行先と言えば伊勢志摩だった。近鉄電車に特別列車を仕立ててもらい、ひと学年がそれに乗って行くのである。特別列車と言っても、毎度あおぞら号のような団体専用車両というわけではなく、私の時は短編成ロングシートの普通車輛だった。それでも非日常な感じがして嬉しかったものである。

 伊勢志摩みやげの話に戻ると、修学旅行に出発する前に「赤福」の申しこみ書が配られた覚えがある。私は「わーい赤福だ」と大喜びであったが、両親はあまり気乗りがしない様子であった。不思議に思って尋ねると、大阪に住んでいると赤福はそれほど珍しいものでもなく「まあわざわざ買わなくても……」ということだった。しかし「ウチはいらん!」と突っぱねるのも躊躇われたらしく、「赤福」の下にオマケのように書かれていた「於福」を申しこんだのであった。あとになって同級生に聞いてみると、「於福」にした家が案外と多かった様子である。帰ってきてから食べた「於福」は甘さが少し抑えられており、私が目を白黒させていると、母が「これはちょっと大人向けかもね」と苦笑したことを覚えている。

 先日、仕事の空き時間に『女鑑』を眺めていたら、赤福の創業話が載っているのを見つけることができた*。『女鑑』とは明治24年に創刊された婦人雑誌である。
* 1898年、173号p24-29、174号p17-24、175号p15-21

 書いているのは岡田杏次郎という創業一族の人で、彼の母が亡くなったのを悼んで、彼女が心を傾けた赤福について、その創業と守成について綴ったものである。追悼文であるから仕方ないが、ちょいちょい脱線して読みにくいので、赤福に関してのみ抽出し整理すると以下のようになる。

赤福の創業
 赤福を創業したのは濱田長治郎。弘化年間に赤福餅の原型を作ったが、最初は「赤福」の名は冠しておらず、ただ餅屋とのみ呼ばれていた。経営は苦しかったらしく、子の種助に家政を譲ったとき、資本と言えるものは僅かに山田ハガキ一匁札が四枚のみであったという。山田ハガキ(羽書)は今の郵便で使うハガキではなく、当時伊勢國山田で使用された紙幣である。銀一匁、五分、三分、二分があった。

二代目濱田種助
 長治郎のあとを継いだのが第二子の濱田種助である。天保八年(1837年)の生まれで、幼名は龜之助といった。それまでは普通の餅だけであったが、彼の時に並に上に上等品を作り、これが「赤福餅」と呼び習わされるようになったという。

 彼は餅の改良に熱心に取り組んだ。買っていった客のあとをつけて味の感想を集めたり、「あそこの餅は安い」「あの餅は美味い」といった噂を聞きつけてはそれらを取り寄せ、重さや味をさまざまに吟味したりしたという。また旅行する人がいると、その地の名のある餅を買ってきてもらい、品評会を開いては餅の改良につとめた。そうして集められた餅の中には草津の姥が餅、大津の走井餅もあったという。

 嘉永七年二月十日(西暦1854年3月8日)にはちゑ(智惠子)と結婚し、さらに家業に励んだが、慶應四年二月十二日(西暦1868年3月5日)に病気で亡くなった。まだ三十二であった。存命であった祖父も五月十八日に後を追い、長子はまだ十一と幼かったため、家業は妻の智惠子が継ぐこととなった。

濱田智惠子
 智惠子は天保七年二月五日(1836年3月21日)の生まれ。伊勢國宇治舘町の宇仁儀兵衛の三女。幼くして両親を喪い、十六で慶光院に奉公に出、十九で種助に嫁した。種助との間に四子をもうけた。この文を草した岡田杏次郎は次男で、父種助の弟岡田傳(慶応二年歿)の跡を継いだため岡田姓である。

 大黒柱を喪った赤福は経営が傾いたが、明治二年になると両宮の式年遷宮式があり、伊勢参りの群衆が押しかけたため商賣を持ち直すことが出来た。彼女自身もよく働き、赤福は繁昌したという。しかしそうやって隆盛となってくると、今度はそれを真似するものが現われるのは世の常というわけで、あちこちに赤福の名を掲げた店が濫立したという。まあこれはこの時代よくあったことである。しかしこの商賣は基本的に薄利であったため、そういったにわか作りの店は次々と閉店し、結局本家だけが残ったのであった。

 明治十年には五十鈴川が氾濫し店舗が半壊したため、かつての商売敵の家を購入して新築した。これが現在の赤福本店である。智惠子は明治三十一年に六十三で死去。長男が家業を継ぎ父の名を襲って種助と名乗り、ますます店を盛り立てたのであった。

げにや一足たえまなく
賑ふかどや赤福に
うつ舌鼓いと高く
ふくるヽ腹は望月の
思ひにさはる雲もなく
淸き心や五十鈴川
流るる水の末遠く
内外の神の宮まうで
いやとこしへの聲ぞめでたき


 なるほど。赤福の創業は弘化なんだな。たしかに角田政治『續大日本地理集成 交通名勝地誌 下巻』(東京 隆文館株式會社, 改訂版1920年)でも弘化年間の創業と書かれている。

 ただこれは赤福の公式見解とは異なるようである。本家のウェブサイトを見ると、創業は宝永四年(1707年)、つまり弘化年間(1845-1848年)より百五十年近く遡るとされているのである。これは一体どうしたわけだろう。

 本家のページを見てもどこにも根拠が書かれていないが、伊勢図書館の「ふるさとの風」2017年5月号「菓子礼賛」にこんな文があった。

浜田ます氏は、赤福創業二百六十年記念として出版した『赤福のこと』の中で宝永五年(1708)に刊行された市中軒の浮世草子『美景蒔絵松』の中にすでに「赤福」の名前が出ていると語っている。『伊勢郷土史草』は、郷土文献紹介として『秘木草紙』(薗田守理/著)を掲載しているが、その中の赤福餅の項は次のような内容である。

古老の話ニは、赤福ハ往昔はさゝやかなる店ニて、当時の家の南ニ浜田と(今の浜田家よりハ別の家のよし)いへる一老女が売り居りし由也。その頃、一匁の餅を買ひに行くと、到底出来ざる程小さき店のよし也。近世軒頭に創業宝永年間の額を掛く。是は岡田福軒(岡田杏次郎)氏、赤福の本ニ付、古き所見なきやと予ニ問ハれし事あり。其後或時(美景蒔絵の松)志道軒著の一端に宇治の赤福餅云々とあるを発見せしより、福軒氏ニ比事を語りし也。右書は題に宝永云々の文字あり、依りて創業を同年と定む。

 一読してよくわからんハナシである。

 まず『美景蒔絵松』が宝永四年に書かれた(刊行は五年)から、創業年も宝永四年だ、と主張する根拠はなんだろう。

 『美景蒔絵松』とは抜参りによる古市遊びを扱った浮世草子である。一応本文を確認したが、たしかに「赤福」という餅屋は出てくる。

此跡の月赤福とやら靑福とやらいふあたたかな餅屋へ聟にはいりくさつて(巻二)

かわゆさに夕部もかくして赤福のあん燒をやりました(巻四)

しかも餡まで出てくるのでますますそれらしく見える。

 それはいいのだが、そもそもこれは浮世草子、平たく言えば小説である。なぜ創業年の根拠が創作なのだ。むろん浮世草子の中には事実小説とでも言うべきものはあるが……。

 まあいい。仮に赤福という餅屋が宝永の頃にあったとしよう。しかし「古老の話では、赤福は昔は小さな店で、今の浜田家とは別の浜田という老女がやっていた」というからには、宝永創業はそちらで、今の赤福とは別なのではないだろうか。それともこの浜田という老女のあとを今の浜田家が継いだ、ということなのだろうか。岡田の智惠子追悼文にそんな話はひとかけらも出てこなかったが。

 で、さらに分からんのは、その岡田が薗田守理に聞いて創業を宝永とした、という『秘木草紙』の記述である。情感たっぷりに濱田長治郎 – 種助 – 智惠子三代の創業話を書いておきながら、浮世草子に屋号が出てくるという傳聞で「やっぱり宝永の頃からあった」と上文を全てひっくり返したということか? もはやわけがわからん。


 「菓子礼賛」は続いて『宇治山田市史上巻』から赤福に関する記載を引いている。

赤福餅 白き餅に小豆餡をかぶせ、之を握つた指の跡をそのまゝ付けたもので、今盛に賣出して居るものである。延經の〔宇治昔語〕に宇治の醫家吉村松軒が茶振舞に用ゐし、あみがさ餅は赤福餅屋へ申付け拵へ出せし云々と見えたれば、寶暦・明和以前既に此の名ありし事が知らるゝ。けれども其の頃はまだ些々たる餅屋に過ぎず、伊勢名物と名のる程のものではなかつたが、文久三年、大神宮御造營御木曳の事あり、ついで慶應三年御蔭参りの事あるに乗じて、勤勉なる當時の主人濱田種助夫婦の奮闘により、異常の發展を成して立派な伊勢名物の一つとなるに至つたものである。(以下略)

 これを見るとやはり寶暦(1751-1764年)、明和(1764-1772年)の頃にも赤福はあったらしい。

 江戸時代は商標登録やらなんやら無い時代だから、赤福という店がいくつかあった可能性はどうか。ただ、昔の赤福は零細であったと共通して書かれおり、そんな店のものを拝借してもしょうがない気がする。「赤福」が濫立して智惠子が迷惑を蒙ったのも、「赤福」の名が売れてからである。とすれば、同時存在説の線は薄そうである。ちなみに、1908年の官報を見ると、「日乃出赤福餅」なんていう商號が宇治山田市の伊藤くにという無関係そうな人によって登記されていたりする。

 いや、もちろん、宝永であろうが弘化であろうが私には何の関係もないさ。家傳とやらでは立派に繋がっているんだろうよ。まあ商売ごとはいろいろ大変で、往々にして帳尻を無理矢理継いだりするんだろう――消費期限が多少ずれたって、材料が多少違ったって、まあ、問題なかろうさ。ただね、こういうことを繰り返しているうちに、人々の敬意もまた漸減してゆくのさ。

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