揚州の鶴と陳州の鶴

私はハンバーガーやピザがすこし苦手である。

 と言っても最初からそうだったわけではない。そうなったのは、アメリカでしばらくそればかり食っていたせいである。渡米当初は調理具もないし、とかく忙しかったので、毎度病院食堂で飯を食っていたのだが、二三週間もすると、ランチミーティングの巨大なピザを見るだけでで胸焼けがするようになった。

 やがて塩サバとホッケの刺身の夢を見るに及び、あわてて鍋やらフライパンやらを買い揃えて自炊することにしたのである。

 当時の住居から歩いて十分のところにアジアンマーケットがあり、食材はだいたいそこで揃った。野菜類は安かったものの、肉はバスで往復一時間以上かかる Wegmans や Trader Joe’s よりやや割高だったので、「今日は冷しゃぶにでもするか」(アメリカのスーパーに薄切り肉はない)とでも思わないかぎり、肉はあまり買わなくなった。自然、つくるものも肉抜きとなるのだが、その際に重宝したのが安かったタケノコである。その結果、私のつくる木須肉(キクラゲと豚肉の卵炒め)は木須筍になり、青椒肉絲チンジャオロースーは青椒筍絲になったのである――もちろんそんな料理はないが。


 日本に帰ってきて『山家清供』を読んでいたとき、「タケノコを肉なんかと混ぜて調理してはならん」と書いてあるのを見ておやおやと思った。

大凡笋貴甘鮮,不當與肉為友。今俗庖多雜以肉,不思纔有小人,便壞君子。「若對此君成大嚼,世間哪有揚州鶴」,東坡之意微矣。

林洪『山家清供』傍林鮮

およそタケノコの素晴らしさは、甘さと清々すがすがしさにある。だから肉と一緒にするべきではない。しかし今日の俗な料理人どもの多くは、タケノコを肉と混ぜて調理している。それこそ小人(肉)が君子(タケノコ)の気品を損なっていると思いもしない。「し此君(竹)にたいしてっておおいしたうちせば、世間なんぞ揚州の鶴あらんや」という蘇軾の心は實に奥深いと言うべきである。

 なるほど。私は計らずして蘇軾の心に適っていたのか――などと一瞬思ったが、木須筍も青椒筍絲も、ここで紹介されている傍林鮮(竹林で落葉を集めて焼いたタケノコ)の枯淡な味わいとはずいぶんかけ離れた料理であることを思い返し、そのアホな考えを引っこめたのだった。

 最後の句は蘇軾の「於潛僧綠筠軒」から引かれたものである。

可使食無肉    食をして肉なからしむべくとも
不可居無竹    きょをして竹なからしむべからず
無肉令人瘦    肉なくんば人をしてせしめ
無竹令人俗    竹なくんば人をしてぞくならしむ

人瘦尚可肥    人の瘦せたるはなほえつべし
俗士不可醫    俗士をばすべからず
旁人笑此言    旁人ばうじん此の言を笑ふ
似高還似癡    高きに似てかへつてなるに似たりと

若對此君仍大嚼  若し此君にたいしてつておほいしたうちせば
世間哪有揚州鶴  世間なんぞ揚州の鶴あらんや

肉は食べなくても生きられるが、
竹のないところには住めない。
肉を食べないと人は痩せてゆき、
竹がないところに住むと人は俗っぽくなる。
痩せた人は太らせることができるが、
ひとたび凡俗に染まった人は手のうちようがない。
周りの人は、私がお高くとまってワケわからんことを言うと笑うが、
もしタケノコの清らかな味を大いに楽しんだなら、
「揚州の鶴」のような大それた欲をもつことなどないであろうに。

 この詩に限らず、東坡の竹狂いはよく知られたところである。また最後の「揚州の鶴」とは、一人で全ての欲望を叶えようと願うことの喩えで、殷芸『小說』の故事に基づく。

有客相從,各言所志,或願為揚州刺史,或願多資財,或願騎鶴上升。其一人曰:「腰纏十萬貫,騎鶴上揚州。」欲兼三者。

殷芸『小說』巻六

客が集まってそれぞれの望みを言い合った。ひとりが揚州の刺史になりたいと言い、ひとりが金持ちになりたいと言い、ひとりが鶴に乗って空を飛びたいと言った。すると、ある人が「腰に十萬貫の財を持ち、鶴に乗って揚州の空を飛びたい」と三つをひとりで兼ねることを願った。


 先日、鷗外の「雁」を読んでいたときに、岡田の愛読書として『虞初新志』(「雁」では『虞初新』)が出てきた。釣られて私も『虞初新志』を読んでいたところ、巻十八に、もうひとつの「揚州の鶴」とでも言うべき話を見つけた。ほぼ字は同じであるが、『江南通志』の方がすこし記述が詳しいので、そちらを引こう。なお、陳州はだいたい揚州のあたり(一部)である。

盧守常倅陳州日蓄二鶴,甚馴。一創死,一哀鳴不食。盧勉飼之,乃就食。一旦鳴繞廬側。盧曰:「爾欲去也,有天可飛,有林可棲,不爾羈也!」鶴振翮雲際數。四回翔乃去。盧老病,無子。後三年,歸休黄浦溪上。晚秋蕭瑟、曳杖林間。忽有一鶴盤空,聲鳴淒斷,盧仰祝曰:「若非我陳州侶耶?果爾,即當下。」鶴竟投入懷中,以喙牽衣旋舞不釋。盧撫之,泣曰:「我老無嗣,形影相弔,爾幸留此當如孤山,逋老共此殘年。」遂引之歸。盧歿,鶴亦不食死。家人瘞之,墓在丁堰。

『江南通志』卷百九十五

盧守常は陳州のそつ(副知府、副長官)で、二羽の鶴を飼っていた。鶴は盧に非常に懐いていた。あるとき一羽が傷を負って死ぬと、もう一羽は哀しげに鳴いて餌を食べようとしなかったが、盧は心を砕いて世話をし、手づから餌を食べさせた。ある日の朝、鶴が盧の側でしきりと鳴くので、盧が「お前はどこかに行きたいのかい。飛んでみたい空、住んでみたい林があるのだね。私は引き留めはしないよ」と言うと、鶴はつばさを広げて羽ばいて遙かな空へ舞い上がり、盧の上を四回まわって飛び去った。

 やがて盧は老いて病にかかった。子供もおらず、三年して故郷に帰り、黃蒲溪(地名、如臯縣の西北)で病の床についた。晚秋のころ、秋風が寂しく吹くなか杖をひきつつ林を歩いていると、突然一羽の鶴があらわれて空を舞い、凄絶たる声で鳴くではないか。盧は空を仰いで祈った「おまえは陳州の時のわが友ではないか? もしそうなら降りておいで」すると鶴は盧のもとに舞い降り、その腕に抱かれた。そして盧の服をくちばしでつかんで舞い、離そうとしなかった。盧は鶴を撫でながら涙を流し「私はすっかり老いて子供もおらず、ひとりぼっちだよ。お前が孤山のように私のもとに留まって、この逋翁(隠者)とともに残りの時を一緒に過ごしてくれるのなら嬉しいのだが」と鶴を連れて家に帰った。盧が亡くなると、鶴は何も食べようとせずそのまま死に、家人は盧のそばに鶴を葬った。盧と鶴の墓は今も丁堰(現在の江蘇省如臯市)にある。

 『河南通志』によれば、盧守常は江南の如臯縣の人で、萬暦三年(1575年)に監生になったとされる。監生とは国子監(大學)の学生で、下級の官に就くことができた。

 「孤山」は杭州西湖にあり、林和靖が放鶴亭を編んで隠棲した地として有名である。彼は一羽の鶴を飼い、梅を植え、生涯仕官しなかった。「梅妻鶴子」(梅が妻で、鶴が子さ)とは彼のことである。なお、先に引いた『山家清供』の作者・林洪は彼の子孫を称しているが、林和靖は生涯独身で過ごしたので、「瓜皮搭李樹」(勝手に子孫を自称すること)の類いであろう。また、蘇軾に「放鶴亭記」があるが、これは徐州の雲龍山人(張天驥)について述べたもので、別物である。

 とまれ、盧守常と鶴の話は、「州の鶴」のように身に過ぎた財産や出世をねがうことのつまらなさを教えてくれるように思える。むろん誰もが盧守常のように「州のとも」を得られるわけではないけれども――。

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