首が無いのもなかなかよいものじゃよ

 電気泳動の待ち時間に『五雑組』を読んでいたら、また賈雍と会った。

賈雍至營問:「將佐有頭佳乎?無頭佳乎?」咸泣言有頭佳。答曰:「無頭亦佳。」乃死。

『五雜組』巻五

 この首無し賈雍の話は『捜神記』などいくつもの書に採られているので、それらから字句を補って訳してみよう。

 賈雍は漢の蒼梧の人。武帝のとき豫章太守となった。
 彼は神術の心得があったが、あるとき郡境の賊を討伐しに出かけ、逆に殺されてしまった。賈雍は首がないまま馬に乗り、軍営に帰ってきた。部下が一斉に駆け寄り彼を見上げると、賈雍は胸の中から声を出して、
「戦いに負けて賊に首を斬られてしまった。ところで、諸君が見るに、首のあるほうがよいかね?それとも首の無いほうがよいかね?」
と言った。部下は涙を流し、こもごも
「首のあるほうがようございます」
と言うと、賈雍は、
「いや、そうでもないぞ。首が無いのもなかなかよいものじゃよ」
そう言い終わるや、賈雍は息が絶えた。

 真顔(?)で「首が有るのと無いのとどっちがいい?」などと問うているあたり、トボけた可笑しみがあり、私はこの話が好きである。謝肇淛も「コイツらはばけものに近いであろう」などと腐しつつ潘翁や崔広宗、また花敬定の伝説を引いているので、彼もまた内心くすくす笑ったのであろう。というわけで、彼らも同様に紹介してみよう。

 まずは潘じいさんから。

淳安潘翁遭方臘亂,斬首,尚能編草履如飛,湯粥從頭灌入。

淳安の潘じいさんは方臘の乱に遭い首を斬られた。(が、なお生きており)彼はあたかも飛ぶような早さで草履を編むことができ、また斬られた首の断面から湯や粥を注ぎ入れることができた。

 これを読むに、首無しでどうやって飯を食うのか、昔の人も何か理屈をつける必要性を感じたらしい。

 次は崔廣宗。

崔廣宗為張守雊所殺,形體不死,飲食情欲,無異於人,更生一男,五年乃死,則近於妖矣。

 これは『太平廣記』巻三百六十七から大幅に字句を補って訳す。

 清河の崔廣宗は唐の開元年間、薊県の令であった。
 彼は法を犯し張守珪により極刑に処された。梟首されたが、体の方は死んでいなかったため、家人が首なしの体を担いで家に連れ帰った。
 彼は腹が減ると「飢」の字を書いた。家人はそれを見ると、首の孔から食べ物を注いでやった。やがて腹がくちくなると彼は「止」の字を書き、家人はそれを見て注ぐのを止めるのであった。
 情慾も人と異なることなく、三四年すると一子をもうけた。
 首を斬られてから五年後、ある日彼は「後日當死,宜備凶具(そろそろ死ぬから葬式の準備をしておけ)」と書いた。はたして、それからしばらくして彼は死んだのである。

 研修医のころ、胃瘻造設の手伝いを何度かしたことがあった。

 胃瘻とは、胃に小さな穴を開け、特殊なカテーテルで体外に繋ぐものである。これを作ると口腔~食道をバイパスして胃に食物を直接注ぎ入れることができるのである。むろんトンカツやらカレーなんぞカテーテルを通らないから、液体の栄養剤を流しこむだけである。そこに食べる楽しさは何もない。

 この胃瘻は本来、一時的に口腔からの食物摂取ができない患者に対して用いられるものである。本来の用途で用いられるならばたいへんに意義のあるものである。ただ実際の医療現場で行われている多くは、本人の意思によらない強制的な延命処置である。自分がもはや何者か認知できない老人を生かしておくための手段である。周囲の思惑によって、本人に「後日當死,宜備凶具」と言わせないための陰計である。


 謝肇淛はまた花敬定の話も載せている。

花敬定喪元之後,猶下馬盥手;聞浣紗女無頭之言

 花敬定は唐の人。劍南西川節度使であった崔光遠の部将として、段子璋の叛乱を平定するに功があったが、後に戦乱の中で命を落とした。

 戦いに敗れた花敬定は、首を失ったまま川縁にたどり着いた。その時、彼が何を思っていたのかは分からない。ふと彼が馬を下りて手についた血を洗おうとしたとき、川で紗を洗っていた女がその姿に驚き「首はどうされたのですか」と尋ねた。花敬定はそれを聞いたとたん、川の中に倒れこみ二度と動かなくなった。

 ミャオ族に伝わる民話にも似た話がある。

 ミャオ族の王が清朝に対して叛乱を起こした。しかし彼は官軍に敗れ、戦で首を切り落とされてしまった。王が首を手に提げて逃げ出したところ、野菜を作っている女に出くわした。王が

「そこの女、わたしはまだ生きていられるだろうか」

と尋ねたところ、女

「おらの野菜が、頭なしで育つなら、お前さまも生きていられるってもんだて」

王はそれを聞いて気がくじけ、そして死んでしまったという*。
* 『苗族民話集 中国の口承文芸 2』平凡社(1974年)「リンシャオとりでの三兄弟」から要約

 ミャオ族は中国西南部の山地に住む少数民族であり、時代は異なるが花敬定もまた蜀でその名をあらわした。彼の名がいかに大きかったかは、杜甫が「贈花卿」「戯作花卿歌」の中であげる花卿こそ花敬定その人であることからも知られるだろう。

錦城絲管日紛紛   錦城の絲管しくわん 日に紛紛たり。
半入江風半入雲   なかばは江風に入り 半は雲に入る。
此曲祗應天上有   此の曲 ただまさに天上に有るべし。
人間能得幾囘聞   人間じんかん 能く幾囘か聞くを得ん。

 錦官城(成都)には毎日にぎやかに糸竹管弦のが響いている。その音のなかばは錦江(成都に流れる川)を吹き渡る風に融け、半は天高く舞い上がり雲に届く――ここまではいい。次の二句は、この曲はまさに天上界にだけあるもので、この俗世で何度も聴けるようなものではない、と続く。これを素直に聞けば、曲の幻想的な美しさを讃え、蜀の安寧を取戻した花敬定を称揚するもののように思える。逆に言えばそれだけの詩である。

 ひとまず措いて「戯作花卿歌」を見てみよう。

成都猛将有花卿   成都の猛将に花卿有り
學語小兒知姓名   語を学ぶ小児も姓名を知る
用如快鹘風火生   用は快鹘かいこつの如く風火生じ
見賊惟多身始輕   賊を見て惟だ多ければ身始めて軽し
綿州副使著柘黄   綿州の副使は柘黄を
我卿掃除即日平   我が卿は掃除して即日に平らぐ
子璋髑髏血模糊   段子璋の髑髏は血模糊たり
手提擲還崔大夫   手に提げて崔大夫に擲還てきかん
李侯重有此節度   李侯 重ねて此の節度有り
人道我卿絶世無   人はわく「我が卿は世を絶ちて無し」と
既稱絶世無     既に「世を絶ちて無し」と称さば
天子何不喚取守東都 天子は何ぞ喚び取りて東都を守らしめざる

 成都には花敬定という猛将がいて、その名前は字を習い始めた子供ですら知っている。はやぶさが獲物を襲うように、彼の激しさは風にあおられる炎のようである。賊の数が多いと見るや、彼の体はさっそく軽やかに動きまわる。綿州の段子璋が天子を僭称したとき、花敬定はあっという間にその叛乱を平らげた。血に塗れた段子璋の死体を引っ提げた花敬定は、その死体を崔光遠の足下に投げ捨てた。

 この詩に表現される花敬定の姿は、あまりに猛々しく、そして血なまぐさい。「子供もその名を知っている」どころではない。きっと誰しも名を聞いただけで震え上がったのだろう。彼を讃えるにしては、お決まりの皇帝に対する忠誠心や民衆を解放した云々の記述が無い事に違和感をおぼえる。そもそも「猛将」「鹘」は人を讃える際に用いる語ではない。続いて李奐が東川節度使に復した事を言うが、単に花敬定を讃える詩でないことは感じられるだろう。

 最後に「『花敬定のような猛将は天下に二人といない』と人々は言うが、もしそれほどの人物ならば、なぜ天子は彼を用い、東都(洛陽)を守らせないのだろうか?」と杜甫は結んでいる。一見「彼のような猛将を取り立てて、この乱を収めるべきだろう」または「彼のような人物を用いないとは、天子(肅宗)には人を見る目がないのだろうか」と言っているかのようである。杜甫は自ら肅宗の新政権に投じた忠臣であるが、房琯を弁護したことにより肅宗の怒りを買い、左遷された身であった。前者ならば忠心からの花敬定の推挙であり、後者なら肅宗に対する批判である。
――どちらか判断するには、花敬定がどのような人物であったか知る必要がある。


 上元二年四月、梓州刺史の段子璋は叛乱を起こした。段子璋は劍南東川節度使の李奐を綿州から追い払うと、自ら梁王を僭称して百官を置き、黄龍と改元した。五月に入ってからの史実は以下の通り。なお舊唐書では花驚定につくる(新唐書では記載の簡略化のために名を省かれている)。

及段子璋反,東川節度使李奐敗走,投光遠,率將花驚定等討平之。將士肆其剽劫,婦女有金銀臂釧,兵士皆斷其腕以取之,亂殺數千人,光遠不能禁。肅宗遣監軍官使按其罪,光遠憂恚成疾,上元二年十月卒。

『舊唐書』崔光遠傳

段子璋が叛乱を起こし、劍南東川節度使の李奐は破れ、(成都にいた)劍南西川節度使・營田觀察處置使である崔光遠のもとに逃れた。崔光遠は部将の花驚定らを率いて段子璋の乱を平定した。しかし、その将兵は掠奪をほしいままにし、金銀の臂釧ひせん(装身具のひとつ)を腕にはめた婦女がおれば、その腕を切り落として奪い取るありさまだった。虐殺されたものは数千人に及ぶ。崔光遠は部下の暴虐を抑えることができず、肅宗は監軍を遣してその罪を問うた。光遠は憂悶のうちに疾に倒れ、上元二年十月に死んだ。

 また高適傳に言う。

後梓州副使段子璋反,以兵攻東川節度使李奐,適率州兵從西川節度使崔光遠攻於璋,斬之。西川牙將花驚定者,恃勇,既誅子璋,大掠東蜀。天子怒光遠不能戢軍,乃罷之,以適代光遠為成都尹、劍南西川節度使。

『舊唐書』高適傳

梓州副使の段子璋が叛乱を起こし、劍南東川節度使の李奐を攻めた。高適は、劍南西川節度使の崔光遠に従って段子璋を攻め、これを斬った。崔光遠の牙將の花驚定という者は、勇を恃んで、段子璋を討ってからというもの、大いに東蜀を寇掠してまわった。肅宗は崔光遠が軍を統御できないことに怒り、罷免して代わりに高適を成都尹、劍南西川節度使に任じた。

 花敬定は確かに段子璋の叛乱を鎮圧するにあたって功があった。しかし、ひとたび戦場いくさばに出た彼は、叛逆者の討伐を終えてもなお殺戮と掠奪を恣にし、それを止められなかった上官の崔光遠は責任を問われて悶死したのである。

 杜甫は叛乱の前年(上元元年)蜀に入った。戦闘と掠奪はひと続きであり、間を置かず行われるのが常である。安史の乱以降、何度も繰返されたことである。近くにいた杜甫が虐殺を知らぬはずがない。「戯作花卿歌」のなかで、血塗れの叛逆者の死体を「どうだ」とばかりに上官に投げて寄越す花敬定を描写しているのは、その証左に思えてならない。では、なぜ花敬定の蛮行を省略したのだろうか。おそらく、言葉にせずとも、当地の人間は「子供すらも知っていた」のであろうし、また、あまりに近くに居たために、直接的な危害が及ぶことを恐れたのかもしれない。わざわざ「戯作」とつけているのも同根だろうか。

 終段の解釈に戻ろう。「『花敬定のような猛将は天下に二人といない』と人々は言うが、もしそれほどの人物ならば、なぜ天子は彼を用い、東都(洛陽)を守らせないのだろうか?」 花敬定という人物を知る杜甫が、彼を推挙することはないだろう。まして、この人物を用いないことを以て、肅宗を批判することなどありえない。とすれば、これは褒め殺しである。「本当にそんな名将なら、洛陽でも守らせればどうですか」と皮肉混じりに評した、という解釈が一番自然に思える。

 ここまで考えると、「贈花卿」の「此曲祗應天上有 人間能得幾囘聞」の意味がまるで違ってくる。普段民間では聴くことのできないような音楽が奏でられている理由は何か。天子の礼楽を侵し、段子璋に代って花敬定が自立を目論んでいる、ということを示唆しているのに他ならない。「このように美しい曲は、かつて長安で天子に奏するのを聴いたことがあるだけである。この蜀の地で聞けるようなものではないのだ」叛乱を鎮圧に赴いた将軍が、そのまま独立することなど珍しくもない時代であった。杜甫は不器用であっても忠臣であるから、たとえ天子に睨まれて左遷された身であっても、唐に対する忠誠を喪うとは思えない。これは花敬定の増長と僭称を世に警告したものだ、と私は思う。


 花敬定がどのような最期を遂げたのか、それはもうわからない。崔光遠の死とともに彼も史書から姿を消したからである。今は、志怪小説のなかに、首を喪った花敬定の伝説だけが残っている。

  • URLをコピーしました!
目次