風邪っぴきとうどん

 子供のころ、母がときどき「コーセツイチバに行ってくる」と言うので留守番をしたことがあった。幼い私は「コーセツイチバ?」と思いつつ母が帰ってくるまで家の中でひとり遊んでいたのだった。

 今は「XX公設市場こうせついちば」というものは多くが廃れたようである。

 むかしあちこちにあった「公設市場」はいつごろ生まれ、今どうなっているのだろう、と資料を読んでいたら、「あっ」という発見があった。といっても公設市場とは何の関係もない。資料の隅に掲載されていた広告に「かぜには熱いうどんとこの薬」とあって昔の疑問が急に解かれたのである。

不朽花. 大阪の臺所公設市塲解剖. 家事と衞生. 1938;14:48-49.

 私の疑問というのは、『二十四の瞳』を読んだときの「うどんやかぜぐすりとは一体なんだ?」というものである。たしか中学生の時分のことである。その時は小豆島のローカルな風習なのかな、で済ませてしまった。

 せまい土間の天井を季節の造花もみじでかざってある店を横目で見ながら、
「大石先生、うどんや風ぐすりというのがあるでしょ、あれもらったら?」
 そうね、と、返事をしようとしたとたん、
「てんぷら一丁いっちょうッ!」
 威勢いせいのよい少女の、よくひびく声が大石先生をはっとさせた。

壷井栄『二十四の瞳』

 その後、吉川英治の「江戸三国志」という小説を読んだときにもこの「うどん屋の風邪薬」が出てきて私の小豆島ローカル説は消滅したのだが、相変わらず正体が掴めないことには変わりなかった。

 売卜ばいぼく先生は型の如く、早速、筮竹ぜいちくをとりあげて一本を端へのぞき、四十九本をザラリと押しもんで扇形にひらくと、思念の眼を伏せてひたいにあて、伏義ふっき文王周公の呪文じゅもんをぶつぶつ念じ出しましたが、するとそこへ、
「――お待ち遠さま」
 うしろの日月の幕の間から、顔を出したそば屋の出前でまえ持ち、けんどん箱の中からあたたかそうなどんぶり一個と、風邪かぜの一服ぐすりとを取り出して隅の方へおき、客と見てそのまま首を引っ込めました。

引用者注:そば屋が持ってきたのはうどんである。

 そして今回、三十年近くたってようやっと、うどん屋で風邪藥を売っていたという事実を知ったのである。

 品名は「うどんや風一夜薬」、店号は「末廣勝風堂」というらしい。「末廣」は創業者の姓、「勝風堂」はそのまま風邪に勝つの意であろう。


 かぜを引いて臥せっているとき、何か食べないといけないとするなら、たいていはうどんではないだろうか。

春原ロビンソン、ひらけい『姫様”拷問”の時間です 3巻』集英社

 「おかゆとうどん」ならば私もうどん派である。刻んだネギとカマボコが二三片乗っているとなおありがたい。さらにとろろこんぶと七味を添えてくれると最高だが、そもそも独り身の私には作ってくれる拷問係はいないのであった。そんなとき、うどん屋が風邪薬まで持ってきてくれれば、たいへん助かるというものである。なるほど。うまいところに目をつけものだ。

 さらにおもしろいのは、古新聞を調査したところ同店は東京にも支店があったようだが、そこでは「そばや風一夜藥」になっていることである。

毎日新聞、1903年3月5日(六面)

 関東の人は風邪引きのときうどんではなく蕎麦を食べるのだろうか? となると上方落語の「かぜうどん」なんかは関東では「かぜそば」になるのかなぁ、なんてことを思った。


附録
 どうもここの店主、末廣幸三郎というのはひどく変わった人であったようで、いくつかの本に「預言者」として名前が挙げられている(『新哲学の曙光』など)。なんでも1905年10月上旬の新聞にこんな広告を載せたとのことである*。
* 日附、新聞名不明はわからない。広告文は1906年1月20日の「滑稽新聞」から孫引きした

我れは救世の一大使命を帯びて生れたる者也

我れは現世を破壊して新らしき國を建設せんが爲に全權を帯びて來れる眞理の使者也

我れは古往今來人類の要求せる總ての飢渇を滿さんが爲に出現せる萬能者也

我れは祖國本來の精神を圓滿に顯揚し以て祖國をして萬邦救済の任命を自覺せしめ之を遂行せしむる爲に發顯せる大和魂の精華也

我れに虛僞なし我れは自己証明者也

我れは卽ち神なる人也

   大阪市南區畳屋町三十番地
       廣告主   末廣幸三郎

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!
  • URLをコピーしました!
目次