鏡張りのトイレと大阪弁

 学会で東京に行ったとき、ひとりでふらっと居酒屋に入ったことがあった。すでに皆としたたか呑んだ後だったので、酒とつまみを注文してさっさとトイレに立ったのだが、そこで驚いた。トイレが天地四方すべて鏡張りだったからである。

 ああこれが狐狸庵先生がむかし書いていた鏡張りのトイレかぁ、と思いつつ用を足したが、ナニが悲しうて中年男の醜態を全面に見せられないかんのや、東京の人は悪趣味なもんを作らはるなぁ、と酔いが醒める思いであった。そして飲み直しもそこそこにホテルに戻ったことを覚えている。

 全面鏡張りの部屋自体は別に珍しいものではない。

 こういう発想はむかしからあって、たとえば北宋のころの小説『迷樓記』では煬帝が大喜びしている。「繪畫はただ形を写すだけだが、この鏡は生きて動く形をそのままに映し出している。繪畫に勝ること萬倍である」云々。まあそういう趣向である。

帝令畫工繪士女會合之圖數十幅,懸於閣中。其年上官時自江外得替回,鑄烏銅屏數十面,其高五尺而闊三尺,磨以成鑒,為屏,可環於寢所,詣闕投進。帝以屏內迷樓而禦女於其中,纖毫皆入於鑒中。帝大喜,曰:「繪畫得其像耳,此得人之真容也,勝繪圖萬倍矣。又以千金賜上官時。


 さて私は勝手に東京のせいにしていたのだが、先日魯庵の「銀座の過去の憶出」を読んでいて、おやおやと思ってしまった。

大向うの人気は兎角下品な趣味が感服されるもんで、二十五六年前、大阪の或る牛肉屋の四方鏡張りの雪隠が大評判となったので、一時大阪の各旗亭が便所の設計を競争した事があった。

『魯庵随筆 読書放浪』

 「牛肉屋」は牛鍋屋、「旗亭」は料理屋や酒場のこと。魯庵によれば、鏡張りの便所が生れたのは1900年前後、しかも大阪発祥ということになる。なんや大阪うちかいな。こらえらいすんまへん。

 この牛鍋屋はどこにあったのだろう、と以後気にかけていたところ、小林一三が自叙伝のなかで触れているのを今日偶然見つけることができた。小林一三は明治から昭和にかけて長く活躍した実業家。山梨出身で、慶応から三井銀行に入り、箕面有馬電気軌道の創立に参画した。これがのちの阪急グループである。明治2, 30年代の大阪を回想して、彼はこんなことを語っている。

松島橋の付近に「げん長」という鳥料理屋があった。いやしくもお茶屋遊びをする人達の話題に取りのこされては、流行後れと侮られるのも口惜しというほどでもないだろうが、とにかく、一度は「げん長」にゆくべしというのである。鳥料理がうまいというのではない。ただ一つ「鏡の間」と呼ぶ便所の新意匠が大阪中の大評判になったのである。一坪くらいの便所の周囲の壁はもちろん、格天井、踏板までが鏡張りで、一度この室に入って御用を試みるときに、各方面から我が姿を見るのである。その醜状を語り合う。「あんた見やはったか」「見やへんし」等々、実は私もこの話をきいただけで、実際見にゆかなかったことを残念に思っている。

小林一三『逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想』講談社学術文庫

 時期も合うので、魯庵と同じ料理屋を指していると思われるが、こちらは鳥料理屋になっている。魯庵にしても小林一三にしても伝聞であるから、多少の齟齬はあろう。

 左に掲げる宇田川文海の『大阪繁昌誌』(東洋堂、1898年)によれば、松島橋西詰に「源長げんちやう」という鶏肉店があったそうだから、まずこの店のことだろう。京町堀四丁目にも支店を出しており、それなりに繁昌していたようである。

 大阪人からすると、松島橋と言えばかつて遊郭があったあたりである。あの一帯は大阪大空襲で完全に焼け野原になった。「げん長」があったであろう松島橋の西詰は今は公園になっている


 ところで、小林が「あんた見やはったか」「見やへんし」と書いているのがおもしろい。今の大阪だと「あんた見はった(か)」「見ぃひんし」の方が多いだろうか。

 「見る」の関西方言は、「見はせぬ」が元と考えられている。「見る」は「み/み/みる/みる/みれ/みよ」の上一段活用で、否定の「―せん」「―へん」がつくときは、間に「や」を挟んで「見やせん」「見やへん」になる。それがいつ頃からか、「見る」のように語幹が一拍しかない動詞は、「見はった」のように「や」が略されるようになったようである。また、上一段活用の動詞は、連用形のイ音に引かれて「へん」が「ひん」に転じ、「見ぃひん」になった。明治二三十年代にはまだその変化が起きていなかったのだなぁ、と勉強になった。

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