本棚の整理をしていると、ときどき買った覺えのない本が見つかることがある。
『玄玄碁経集 2』という本もそれで、なぜ買ったのかさっぱり思い出せない。私は勝負事はからっきしで、囲碁は「なんか知らんけど囲えばいいんだろ」というレベルであるから、こんな本を買うはずがないのである。しかも2巻だけである。
貧乏性でとりあえずパラパラめくってみた。石の並びを見てもなにがなんやらだが、このページの鍋っぽい配置は面白いなぁ、と思った。こういう情勢になることもあるのだろうか。それともこれは詰将棋のような特殊な状況下での思考ゲームなのだろうか。

棋譜にはひとつひとつ名前がついており、その謂われについても短く解説されている。
ただこの解説はわりとデタラメである。「赤貧に甘んじ、飯をしばしば絶ったため、釜の中に魚が生じた」と言われると、天が范冉を哀れんで魚を下したかのようである。正しくは、ここの「魚」は「魚蟲」と解釈するのが普通で、長いこと使われていない釜に雨水がたまってボウフラがわく、という意味である。
如此十餘年,乃結草室而居焉。所止單陋,有時粮粒盡,窮居自若,言貌無改,閭里歌之曰:「甑中生塵范史雲,釜中生魚范萊蕪。」
『後漢書』獨行列傳
「史雲」は范冉の字、「萊蕪」は彼が萊蕪縣の縣長をつとめたことから。
ボウフラ云々は脇に置くとして、それ以前にこの解説はタイトルと内容があっていない。そもそも「魚遊釜中」は後漢の張綱の逸話に基づき、「目前の災いに気がつかず、安逸を貪ること」の喩えとして用いられる。おそらくこの棋譜を作った人もそういう意図を以てしたのだろう。そこに范冉の「釜中生魚」を持ってきて解説しては意味不明になるのはあたりまえである。
張綱のことは『後漢書』巻五十六に見える。彼は字を文紀といい、犍為武陽の人。張良の子孫であり、蜀漢の張翼の曾祖父である。若いころから経学に通じていた。官に就いたが、時の大将軍梁冀に睨まれ廣陵の太守に任命された。廣陵は当時二十年にわたり叛乱が続いており、これまでに何人もの官吏が殺されていた。だからこの任命は「死ね」という意図である。ま、こういう人事は今でも普通にありますな。
さて、張綱は単身叛乱軍の首魁である張嬰を訪うと、利害と情を尽して説得した。主上には聖徳があり、ひとたび叛いた者でもお赦しくださるが、もし従わないならば、大軍をもって攻め潰すであろう云々。その説得に応じた張嬰の言葉が「若魚遊釜中」つまり、私の今の立場は、魚がこれから煮られるのも知らずに釜の中で泳いでいるようなものだ、というものである。
張綱は廣陵にいること一年、四十六で亡くなった。廣陵の民は誰もが彼の平癒を祈願し、彼が亡くなったとき、「千秋萬歲,何時復見此君(あなたのように素晴らしい太守にお仕えすることは二度と叶いますまい)」と言って嘆いた。張嬰もまた喪服をつけて葬儀に加わり、麾下五百餘人とともに、張綱の故郷である犍為まで棺を運び、土を負って墳墓をつくったという。地図を見ればわかるが、廣陵と犍為は中国の端から端である。いかに張綱の徳が周くゆきわたっていたかわかる。
『後漢書』にふたつも「釜の中の魚」の話があるとは解説子も思わなかったのかもしれない。漢のころ「釜の中のなんちゃら」という言い回しが流行ったのだろうか。そういえば漱石も「勝ちたくても、負けたくても、相手が釜中の章魚同然手も足も出せない」なんて書いていた。
まあ似たものを混同するのはよくあることで、良寛さまも「釜中 時に塵あり」と釜と甑を取り違えていたりするから仕方ないさ。
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