遠慮のかたまりと八宝菜の卵

関西人の飲み会では

「皿片づけるから、この遠慮のかたまり、、、、、、誰か食べ」

「へいそれじゃ頂きます」

という会話は珍しくない。互いに遠慮しあった結果、皿にひとつ残ったブツのことを「遠慮のかたまり」と呼ぶのはどこでも同じかと思っていたが、関東の人に聞くとそうでもないらしい。

 「遠慮のかたまり」という言い回し自体は、1878年5月22日の假名讀新聞に「此ごろ遠慮の固まりで」とあるから、昔からあったと見える。しかし皿の上にひとつ残ったものを指すようになったのはいつからだろうか。

 私の記憶では、たしかケーブルテレビで見た「もぐら横丁」(清水宏監督)に、一個残ったシューマイを見た芳枝が「この遠慮のカタマリ、食べちゃいなさいよ!」と言うシーンがあったはずである。「もぐら横丁」は1953年の映画であり、数年前に出版された尾崎一雄の同名私小説を原作とするので、すくなくとも1950年代には使われていたと見てよいだろう。ただ、尾崎一雄は生まれこそ三重であるが、ほぼ神奈川の人と言ってよく、「もぐら横丁」自体も舞台は神奈川である。もう少し前の明治大正期の小説でも見た記憶があるので、さらに遡ることができるかもしれない。


 COVID19禍前、職場の忘年会は中華料理屋で行われるのが通例であった――どうでもいいことを思い出したので書いておくと、戦前、九州帝大病理学教室の忘年会も「太閤園」でよく行われたらしい。「太閤園」と言っても大阪にあった藤田男爵の網島御殿ではない。これは中華料理屋で、檀一雄が福岡の開業医・高橋雄太郎の娘、律子と結婚したとき、その披露宴をやった場所として有名である。この高橋律子はもちろん「リツ子・その愛」「リツ子・その死」のリツ子である。閑話休題。

 いきなり脱線したが、いつだったかの忘年会の席上、八宝菜の皿に、しょんぼりとウズラの卵一個と白菜一切れが残っていたことがあった。まさに「遠慮のかたまり」である。ウズラの卵は皆好きなので、たいてい真っ先になくなるし、中にはそればかり選んで食う蛇みたいな奴もいるのだが、その時はなぜか残っていた。そこで私はつまらんことを思いついて、

「これはあれですね。皿守さらもりってやつですね」

と言ったのだが、どうにも通じなかったので、すこし補足しておきたい。


 「皿守さらもり」とはもちろん「巣守すもり」からである。「巣守」とは、孵化せずにいつまでも巣の中に残っている卵を指す。あるいはあとに一人取り殘されることを指す。

只一人嶋ノ巢守スモリ成果ナリハテヽ。思ニタヘスハカナクヤナリヌラン

『源平盛衰記』巻十「丹波少将上洛の事」

 『源氏物語』橋姫、中の君の歌にも「泣く泣くもはねうち着する君なくは われぞ巣守りになるべかりける」とある。これは「涙ながらも育んでくださる父君がいらっしゃらなかったら、孵らない卵のように、この私は育つことができなかったでしょう」の意である。

「えーっとですね。ですから、皿を巣に見立てまして、残った卵を『皿守』と言ってみたわけであります……すみません」ギャグを一から十まで説明させられるほど悲しいことはない。

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