蕎麦くらい好きに食わせてくれよ

 「そのものは好きだが、知らん人とは一緒に食べたくない」ものの筆頭が蕎麦である。

 やれ音をたててはいけないの、逆に啜る音がいいだの、嚙むのは素人だの、薬味をつゆに混ぜてはいけないの、つゆにつけるのは少なければ少ないほど良いだの、とかくうるさい通人、、が多くて気楽に食えないのである。ああ、天蕎麦はてんぷらを先に食べるな、なんてのもあったな。私はそのへんの作法をわきまえぬ野人であるが、他人の食膳を覗きこんでしたり顔で説教を垂れる連中の方がよほど卑しいのではないかと思っている。


 まず関西人としてよくわからんのが「蕎麦湯」の飲み方である。

 中野其村がどこかで「京阪では蕎麦湯を出さない」と書いていた通り、今でも関西ではあまり見かけない。句佛こと東本願寺の大谷光演も三十近くなってからわざわざ「夕餉に蕎麦湯を試む」と書いているほどである*。本草学者の人見必大も蕎麦湯の効能を記したあと「しかれどいまだ之を試みず」と書いているから**、元禄の頃は江戸でも皆が飲むというものでもなかったようである。
* 『ホトトギス』七巻十號、1904年
** 『本朝食鑑』穀部之一

 通人とやらによれば、あれはそのまま飲むものらしい。

 むかし上司と蕎麦に行ったとき、出てきた蕎麦湯をお義理で一口そのまま飲んだあとさっさとツユを入れたのだが、かの御仁「ア、アーッ」と絞め殺されたアヒルみたいな声を出したかと思うと「なんてことをするんだ! 蕎麦湯ってのはそのまま味わうもんだ」とテーブルを叩きながら吼えた。よほど「弥次北は下地(つゆ)を入れて飲んでますけど、あれも無粋ですか」と言い返そうかと思ったが、激高するとなにをするかわからない無学の徒に何を言ってもしかたないから「これは不調法でした」と頭を下げたことがあった。

 次。

 蕎麦屋もうどん屋のように薬味を自由に選べるとありがたいのだが、そういう配慮をしてくれる店は少ないようである。わりと人によって好みは違うと思うのだがなぁ。私は大根おろしとワサビが好きだが、この組合わせに中るかは運である。「おろし蕎麦をたのめばいいじゃないか」と思うかもしれないが、それをしたらしたで「おろし蕎麦ってのはですね、うどんと蕎麦の違いが分からない関西人の食べ方ですね。江戸っ子はそんなことしないもんです」とのたまう不思議な女もいたのである。あの時もよく「さよかほなさいなら」せずに我慢したものだ。

 まったくこういう連中は、平秩へづつ東作の狂歌

  黒髪をおろし大根だいこんのりの道 ほとけそば、、や近づきぬらん

を唱えてその洒脱さに学んだ方がいいね。説明不要と思うがこれは「髪を下ろし出家の身となっても大根おろしとノリをかけた好物の蕎麦はやめられんなぁ」と言っているのである。

 薬味と言えばワサビがあるが、これもツユの中に入れてはイカンらしい。

 静岡勤務のとき、蕎麦屋で一本のワサビをおろしながら食べたことがあったが、たしかにその香味の格調高さはすばらしく、これをツユの中に入れてしまっては香気が消えてしまい惜しいことだと思われた。しかしそれにしたって、市販の練りワサビなら大した香りがするわけではないから、ツユに入れても何の問題もない。それに、ツユの生臭さが気になる人もいるであろうし、ワサビの量の加減を間違えたときのことを考え均一にしたい人もいるだろう。そんなときワサビをツユに投入するのは十分に合理的なことである。何の文句があるか。


 つらつら不愉快な話を連ねてきたが、これら蕎麦の食い方の禁忌を最初に言い出した人のココロはきっと親切心からだったのだろう。理由をつぶさに聞けば、たいていは「そうかもね」くらいには思うのである。しかしそれを金科玉条として他人を折伏しようとする輩は無粋の極みである。多少非効率であったり、惜しい食べ方をしていても、所詮は他人のすることではないか。放っておけばよいものを。昔から「人のうれひは好みて人の師となるに在り」とは言うが*、美味いものを食っているときくらいそれを頭から去れないものだろうか。
* 『孟子』離婁上「人之患在好爲人師」

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