蓮酒をはじめたのは?

 如是閑の自傳に、女中奉公に出ていた祖母が殿様からよく「蓮酒」を飲まされた、という話が出てくる。「蓮酒」とは、蓮の葉を茎ごと取ってきて葉に酒を注ぎ、茎に口をつけて吸う遊びである。そのままでは葉に酒が貯まるだけであるから、葉に孔を空けて茎の中の管(維管束)と繋いでやる必要がある。平べったい漏斗のようなものを想像すればよい。

 上から殿様が酒をどんどん注ぎ、下で茎を咥えた下女が「もう無理です飲めません」という顔をするのを楽しむ、という趣向らしい。しかし酒に強かった祖母はいくら飲んでもケロッとしていたので、殿様の方が困ってしまったそうな。


 この「蓮酒」のもとになったであろう記述は『酉陽雑俎』巻七に見える。

歷城北有使君林。魏正始中,鄭公愨三伏之際,每率賓僚避暑於此。取大蓮葉置硯格上,盛酒二升,以簪刺葉,令與柄通,屈莖上輪菌如象鼻,傳吸之,名為碧筩杯。歷下學之,言酒味雜蓮氣,香冷勝於水。

歷城の北に使君林があった。魏の正始年間、暑い盛りになると、鄭公愨は幕僚を引連れていつもここに避暑に赴くのであった。彼は大きな蓮の葉を取って硯格の上に置き、葉に酒を二升注ぎ、簪で葉を刺して茎の中に通じるようにした。屈曲した茎はまるで象の鼻のようであり、酒を茎から吸うのである。彼はこれを「碧筩杯」と名づけ、歷城の人々もそれに倣った。酒の味に蓮の香りが加わり、水をそのまま飲むよりも香りがよく、また冷たく感じると評判であった。

『歷城縣志』より 使君林は大明湖にあったとされる。

 味の方はどうかというと、蘇軾は「碧筒へきとう時に象鼻の彎をし、白酒すこしく荷心かしんにがきをぶ」と言っているから、想像するにわずかに青臭さと苦味が加わるのだろうと思われる。
*「泛舟城南會者五人分韻賦詩得人皆若炎字四首」

 この「碧筩杯」(碧筒杯)は「荷葉杯」や「象鼻杯」とも呼ばれる。「荷葉」とは蓮の葉のこと。「象鼻」もそのまま象の鼻である。茎を下にしたままだと酒が茎から流れ出てしまうため、茎の先を持ち上げた様子からきている。如是閑の祖母が仕えた大名の遊びとは違い、ここでは風流を楽しむためのものであるから、客に勧める際にこのようにしたのだろう。


 碧筩杯の発明者「鄭公愨」についてはよく分からない。書架から適当に本を取り出して開いてみたが、どの本も不詳としている。そもそも「魏正始」の魏ですら三国魏のものとしている本もあれば北魏に比定する本もある始末である。

そのところは昔魏の正始年間(三世紀中頃)地方長官をしていた鄭公愨が三伏の頃
青木正児『中華名物考』平凡社東洋文庫(1988年)

 

魏の正始(二四○~二四九)中、鄭公愨が歴城(山東省)の北林に避暑していたときのこと(引用者略)鄭公愨(『酒譜』は愨を穀に誤る)については不明であるが
中村喬編訳『中国の酒書』平凡社東洋文庫(1991年)

 

鄭公愨 未詳。公は爵位を示す語と考えられるが、鄭愨が未詳のため、原文のまま、書きうつす。なお、魏の正始という年号も、三国時代の魏にやはり正始の年号がある(二四○~二四ママ年)が、ここでは、北魏のそれとしておく。
今村与志雄訳注『酉陽雑俎 2』平凡社東洋文庫(1980年)

 さてどちらが正しいのか、そして「鄭公愨」とは一体誰なのかちょっと調べてみよう。

 まず「魏正始」について。「正始」という元号は、三国魏および北魏、また北燕で用いられた。北燕については、わざわざ「魏正始」となっている上、北燕は歷城を支配したこともないので、除外してよいだろう。

 「鄭公愨」について。「公」は普通に考えると爵位だから、名は「鄭愨」だろう。ただ「鄭愨」について調べても何もでてこない。

 「歷城」が置かれたのは漢の時である。当初は青州済南郡に属し、魏でも変わらない。一方、北魏では歷城は齊州の所属に遷っている(「齊州治歷城」『魏書』卷一百六中・地形志二中第六)。そして「使君」とは刺史の敬称であり、属僚を連れて使君林に避暑に赴いていることからして、「鄭公愨」とは刺史ないしそれに近い地位にあった人物と推測できる。

 以上から、三国魏の青州刺史、北魏の齊州刺史について調査すれば、「鄭愨」が誰か見当がつくかもしれない、と目処がついた。さっそく始めよう。


 まず、三国魏の正始年間に青州刺史をつとめたのは誰だろうか?

 萬斯同の魏方鎮年表を見ると、太和六年から青龍にかけての青州刺史は程喜であったことがわかる。飛んで甘露三年に諸葛誕の叛乱鎮圧に功のあった鍾毓が青州刺史に任じられている。しかし正始年間における青州刺史は誰であったかはわからない。熹平年間には石苞が都督青州諸軍事になっているが、彼を「鄭公愨」と誤ることはあるまい。もちろん「刺史ないしそれに近い身分であった」という仮定が誤っている可能性もあるのだが――とりあえず、三国魏には該当する人物がいない、と仮に結論づけて北魏の方へ行こう。

 次に北魏の齊州刺史について調べてみよう。『魏書』を虱潰しにしてもいいのだが、こういうのはたいてい地方史とかで一覧になっていたりするので、今回はそれで楽をしよう。

杜詔『山東通志』

 ああ「鄭懿」という名の齊州刺史がいるではないか。『酉陽雑俎』が「懿」を誤って「愨」に作った可能性もある。さっそく『魏書』『北史』の彼の傳を見てみよう。

長子懿,字景伯。涉歷經史,善當世事。解褐中散,尚書郎,稍遷驃騎長史、尚書吏部郎、太子中庶子,襲爵滎陽伯。懿閑雅有治才,為高祖所器遇,拜長兼給事黃門侍郎、司徒左長史。世宗初,以從弟思和同咸陽王禧之逆,與弟通直常侍道昭俱坐緦親出禁。拜太常少卿,加冠軍將軍,出為征虜將軍、齊州刺史,尋進號平東將軍。懿好勸課,善斷決,雖不潔清,義然後取,百姓猶思之。永平三年卒。贈本將軍、兗州刺史,諡曰穆。
『魏書』卷五十六 列傳第四十四

長子懿,字景伯,涉歷經史。位太子中庶子,襲爵滎陽伯。懿閒雅有政事才,爲孝文所器遇,拜長兼給事黃門侍郎、司徒左長史。宣武初,以從弟思和同咸陽王禧逆,與弟通直常侍道昭俱坐緦親出禁。拜太常少卿,出爲齊州刺史。懿好勸課,善斷決,雖不清潔,義然後取,百姓猶思之。卒,贈兗州刺史,諡曰穆。
『北史』卷三十五 列傳第二十三

 鄭懿は鄭羲の長子。字は景伯。傳に曰く「鄭懿は人となりが優雅で政治の才能があった」ため、孝文帝(在位467 – 499年)に重用された、とある。次の宣武帝(在位499 – 515年)の時代に従弟が咸陽王元禧の叛乱に与したため一時的に失脚したが、のちに齊州刺史などを歴任したらしい。

 元禧の乱は景明二年(501年)。赦されて齊州刺史となり、亡くなったのが永平三年(510年)。そして北魏の正始年間は504-508年であるから、齊州刺史をつとめた年代も矛盾しない。

 鄭懿とはどのような人物だったのだろうか。上に挙げた傳によれば、農業を奨励し、その判断は公正で、廉潔とは言い難いが故なく物を受取ったりはしなかった(義然後取;『論語』憲問十四)ので、民は彼を慕ったという。また、共通して「風流を解する人であった」と書かれており、鄭懿が碧筒杯の生みの親として間違いないのではないか?

 「懿」と「愨」については、『後漢書』竇融傳「非忠孝愨誠,孰能如此?」に「愨或作懿也」と注がついていたりするので、互いに交換されやすいのかもしれない。なお『酒譜』は『酉陽雑俎』を引いて「鄭公愨」から「鄭公糓」に誤り、『歷城縣志』では「鄭公崇」になっている。「愨」「懿」のような字はへん、、つくり、、、が略されたり、別のものにすり替わったりといった誤りが生じやすいのだろうか。

 以上、北魏の鄭懿こそ碧筒杯の生みの親ではないか、という話であった。

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