英和辞典と三不粘と魯迅と

 なにかの用で英和辞典を引いたとき、同じページにあったこの単語をふと見つけた。

thrée-stícks-nòt
n. 〔中国料理〕 サンプーチャン(三不粘):中国北京の山東料理店同和居の名物料理;水とき片くり粉に卵黄と砂糖を加え,黄金色にいためあげた料理;清朝の宮廷料理の一種.

 あ、これは『鉄鍋のジャン』で蟇目檀が作っていた点心ではないか!

西条真二『鉄鍋のジャン6』秋田書店(1996年), 96ページ

「三不粘」の材料は砂糖、卵黄、ラード、緑豆でんぷんで、それらを混ぜ合わせ、鍋で加熱しつつ混ぜ合わせてつくる平べったい点心である。皿、箸、歯にくっつかないから「三不粘」(不粘盤子、不粘筷子、不粘牙齒)である。なお「三不粘」(三不黏)と命名したのは李鴻章の女婿(ということは張佩綸かな)だったはずである。何かで読んだが残念ながら書名を忘れてしまった。

 ジャンで知って以来、中華料理屋に入るたびに三不粘を探してみるのだが、ついぞ見かけたことがないのを今でも残念に思っている。仕事で台湾に行った時も「しめしめこれは上司の金で食えるな」と菜単を繰ってみたが見つからなかった。落胆のあまり、思わずダイコンの葉っぱの炒め物なんぞ注文した覺えがある。これが望外に旨かった。さてさて味を想像してみるに、原料は卵黄、ラード、砂糖、緑豆でんぷんだから、マヨネーズに砂糖を加えてぷるぷるに固めた感じかな……うん、おそらく、珍しさと食感を楽しむ料理なのであろう。


 魯迅の北京時代、彼が愛した料理屋に「廣和居」という飯店がある。「廣和居」は、上記英和辞典やジャンでも擧げられた「同和居」と同じく、八大居のひとつに数えられた名飯店である(あとは福興居、萬興居、同興居、東興居、萬福居、和順居)。なお同和居については奥野信太郎が「燕京食譜」のなかでいくつか思い出話を書いているが、三不粘は出てこない。

 魯迅の日記を見ると、多いときには一週間に一回「夜飲於廣和居」「晩食於廣和居」と記されている。彼自身はどのような料理を食べたか記録していないが、一時期同居していた弟の周作人がこの店のことを書き残している。それによると、畏まって客をもてなすというよりも、友人が尋ねてきたときに普段使いする気安い店だったようである。

客來的時候則到外邊去叫了來。在胡同的口外有一家有名的飯館,就是李越縵等有些名人都賞識過的廣和居,有些拿手好菜,例如潘魚、沙鍋豆腐、三不粘等,我們大抵不叫,要的隻是些炸丸子、酸辣湯,拿進來時如不說明,便要懷疑是從什麽蹩腳的小飯館裏叫來的,因為那盤碗實在壞得可以,價錢也便宜,隻是幾個銅元罷了。

周作人『知堂回想錄』

 名物料理として潘魚、沙鍋豆腐、三不粘が挙がっている。もしかすると魯迅もこの三不粘を愛したのかもしれない。なお「潘魚」の潘は普通に考えれば潘岳だから、彼の「悼亡詩」にある「如彼遊川魚,比目中路析。」あたりから来たのだろうか。とは言え料理の方はさっぱり想像がつかない。「沙鍋豆腐」は味付きの湯豆腐みたいなものかな?

 英和辞典の話に戻ると、この”three-sticks-not”という単語は面白い。古英語では否定語が最後に來ることは珍しくなかったようだが、同様の構造を持っている単語としては”forget-me-not”(勿忘草)や”have-not”(持たざる者)くらいしか私は知らない。

 ところで、”three-sticks-not” という単語だが、実際の用例があるか調べてみたがなんにも見つからなかった。本当に使われている単語なのだろうか? 辞書の編者がどこかの中華飯店の菜単で見つけて「へぇ」と紛れこませた、なんてオチだったら楽しいなぁ、と思った。辞書を眺める楽しみはこういう妙な単語を見つけることにもあるのかもしれない。

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