宇喜多秀家とトリコモナス

 八丈島を訪れたとき、歴史民俗資料館を尋ねたことがあった。たしか2015年のことだから、資料館がまだ旧八丈支庁庁舎にあった頃である。

「あっ、ここかな?」と扉を開けて中を窺うと、受付のお姉さんが驚いた顔をして頭を上げた。

「あっ、はい?島のかたですか?」

「あっ、違いますが、もしかして島民限定でしたでしょうか?」

「あっ、すみません。島外の方には***円(失念)ご負担いただくことになっておりまして」とのことであった。「あっ、それはもちろん」と2時間ほどかけてゆっくり回天隊や流人に関する史料をひとつひとつ見てまわった。

 その帰りみち、都道215号線をとぼとぼ東に歩いていると「宇喜多秀家の墓」という木標につきあたった。先の資料館で秀家の流刑地での生活についていろいろ知ったところであったので、「あっ、こんなところにあるのか」と見てゆくことにした。

 都道から逸れて横路に入るとすぐ左手にそれは見えてきた。墓所は低い石垣に囲まれ、中央に五輪塔がひとつ鎮座している。これが秀家の墓で、周囲に一族の墓が並ぶ。

 ただ私には違和感があった。桜の木がないのである。私が島を訪れる前に読んだ『南汎録』によれば、「秀家の墓は楊梅原にあり、石垣を二重に積み上げ、中に桜の木が植えてある」はずである。『南汎録』は羽倉簡堂という代官が伊豆七島を巡視したときの記録で、天保九年五月十二日(西暦1838年7月3日)に彼もまた秀家の墓所を訪れており、下のような記録を残している。

早稲田大学古典籍総合データベースより

 私が訪れた日は蒸し暑い日だった。簡堂の書くように当時既に「枝幹甚老」とあるから枯れてしまったのかな、と思っていたら、傍の立看板の存在に気づいた。それによれば、この墓は天保十二年に九代目秀邑によって移築されたものらしい。というわけで地図片手に元の墓所を探してウロウロしてみたが、浮田桜にはとうとう会えずじまいであった。台風が多く湿度の高い八丈島の気候では、植物を長く保たせるのは難しいのかもしれない。


それはそうと、『南汎録』後段のエピソードがちょっとおもしろい。

又聞承應中有薇人飄至者。一白鬚翁問之曰:「今有薇國者爲誰。」對曰:「松平某。」又問其家章。對曰:「蝶。」翁拍手大笑曰:「果然三左也。」

承應じょうおう(1652-1655年)のころ、備州出身で八丈島に漂泊した人がいたが、あるとき白ヒゲのじいさんに話しかけられた。「ちとお尋ねするが、いま備州の領主は誰かいのう?」彼は答えた。「松平様です」じいさんが重ねて「(松平じゃわからん)その大名の定紋は何じゃ?」と聞くので、彼が「蝶です」と言うと、じいさんは手をうって「なんだやっぱり三左(池田輝政、三左衛門)じゃないか!」と大笑いしたという。

 このじいさんこそ、かつての備前宰相秀家であった。「薇國」は吉備きび(黄薇)国のこと。関ヶ原から五十年以上たっても誰が備前を治めているのかやはり気になったものと見える。備前岡山藩は池田氏で、松平姓を許されており、家紋は蝶である。もっとも「三左」こと池田輝政はとっくの昔に死んでおり、岡山藩は三代目光政の代であった。


……と、なぜ秀家の墓を訪れたときのことを今さら思い出したのかと言うと、仕事で細胞診を見ていた時、きれいなトリコモナス原虫がいたからである。豪姫がトリコモナス膣炎だったとかそういう尾籠な話ではなく、つい最近まで使われていた抗生剤「トリコマイシン」からの聯想である。

 トリコマイシンを発見したのは東大の細谷省吾せいご氏である。1952年、彼は共同研究者が持ち帰った秀家の墓の土壌から Streptomyces hachijoensis を分離し、その菌糸から抽出した黄色の物質がトリコモナスに著効することを見いだし trichomycin と名付けた。以後五十年にわたって、膣錠はトリコモナス膣炎や膣カンジダ症、軟膏剤は白癬菌症(要するに水虫)の治療薬として用いられた。

 思えば、秀家は長く生きた。主家の豊臣家が滅び、敵であった家康も死に、秀忠、家光と代がかわってもまだ生きていた。彼が死んだのは明暦元年(1655年)、八十四歳の時で、幕府は既に四代家綱の時代であった。実に五十年を八丈島で過ごしたことになる。その子孫は明治維新によって赦され一部が本土に帰ったが、秀家自身も放線菌となって岡山に戻り、水虫や膣炎の薬として日本中に広まったと言えるのかもしれない――ある日の午後、顕微鏡を覗きながら、私はそんなことを考えていた。

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