中国初の女帝(自称)陳碩真

 中国の女帝というと周の武則天が有名かつ唯一だが*、彼女が帝位に就く四十年ほど前、今の浙江省杭州市のあたりに、自ら皇帝を称した一人の女性がいたことはあまり知られていない。彼女の名は陳碩真と言う。唐高宗の永徽四年(653年)、彼女は睦州で朝廷に対して叛旗を翻し、「文佳皇帝」を称したのである。そして周囲の縣をいくつか陥したが、官軍によって一ヶ月ほどで鎮圧されてしまい、彼女も志半ばで命を落としたのであった。
* 細かい事を言うと、北魏の時に男と偽って一日だけ皇帝に立てられた女児がいる(孝明帝の娘)。

 彼女のことは『新唐書』『舊唐書』ともに叛亂を鎮圧した崔義玄の傳に記載がある。

 崔義玄は貝州武城縣の人。はじめ李密に仕えたが用いられなかった。唐に属してから李世民の王世充討伐に従って功をたて、左司郎中兼韓王府長史となった。後に武則天の立后に賛成し、彼女が政権を握ってから揚州大都督の位を追贈された。

 というわけで該当箇所を見てみよう。

永徽中,累遷婺州刺史。時睦州女子陳碩真舉兵反。始,碩真自言仙去,與鄉鄰辭訣,或告其詐,已而捕得,詔釋不問。於是姻家章叔胤妄言碩真自天還,化為男子,能役使鬼物,轉相熒惑,用是能幻眾。自稱文佳皇帝,以叔胤為僕射,破睦州,攻歙殘之,分遣其黨圍婺州。義玄發兵拒之,其徒爭言碩真有神靈,犯其兵輒滅宗,眾兇懼不肯用。司功參軍崔玄籍曰:「仗順起兵,猶無成;此乃妖人,勢不持久。」義玄乃署玄籍先鋒,而自統眾繼之。至下淮戍,禽其諜數十人。有星墜賊營,義玄曰:「賊必亡。」詰朝奮擊,左右有以盾鄣者,義玄曰:「刺史而有避邪,誰肯死?」敕去之。由是眾為用,斬首數百級,降其眾萬餘。賊平,拜御史大夫。

『新唐書』崔義玄傳

 永徽年間、崔義玄は州刺史に転じた。
 時にぼく州の女陳碩真が兵を挙げて叛いた。陳碩真は始め「自分はこれから仙人となって天に昇ります」などと吹聴してまわり、郷里の人に別れを告げるなどしていたが、詐言を以て人を惑わせる者がいると告発され、間もなく捕らえられた。しかし罪に問われることなく釈放された。ここにおいて(無罪放免になったことから先の話が信憑性を帯び)、姻戚(妹の夫)の章叔胤は「陳碩真は仙界に行ってまた地上に還ってきたのだ」だの「化して男子となった」だの「鬼や化物を使役することができる」だのと妄言を吐き、その言葉がめぐって人々を惑乱させ、民衆を幻惑した。彼女は自ら文佳皇帝を称し、叔胤為を僕射とした。
 叛乱軍は睦州を破り、歙州を攻めて破壊し、兵を分けて婺州を包囲した。崔義玄は兵を集めて抗戦したが、兵たちは「陳碩真には神霊がついており、彼女の兵と戦えば一族が滅びる」と信じ、恐れおののいて戦おうとしなかった。司功參軍の崔玄籍は言った。
「天命に従って兵を挙げてもなお事が成らないことがあります。まして奴らは妖術を以て民衆を誑かしているだけです。勢いが長く続くはずがありません」
 (『舊唐書』より補:崔義玄はそれに賛同し)崔玄籍を先鋒とし、崔義玄もまた兵を率いてそれに続いた。下淮戍に至り間諜數十人を捕らえた。ある夜、流星が叛乱軍の軍営に墜ちたので、崔義玄は「これは賊が滅ぶ前兆だ」と言い、夜が明けるとともに攻めかかった。彼の左右には盾を持って矢を防ぐ兵がいたが、彼は「刺史が(兵を盾に)矢を避けるような真似をして、誰が私のために死んでくれるだろうか」と言い、盾を捨てさせた。これにより兵は皆力を尽して戦い、数百人を斬首し、一萬餘を降伏させた。陳碩真の乱を平定すると、その功績により崔義玄は御史大夫に任じられた。

 『舊唐書』とあわせて経過をまとめると以下のようになろうか。

経過
十月戊申陳碩真挙兵
章叔胤が桐廬縣を攻め陥落させる
陳碩真が兵二千で睦州および於潛縣を落とす
歙州に侵攻するが勝てず掠奪する
揚州刺史房仁裕に討伐令が下される
童文寶が四千を率い婺州を攻撃したが崔義玄によって阻まれる
崔義玄が賊を大いに破り睦州に進軍し、投降者が相次ぐ
十一月庚戌房仁裕と崔義玄の連合軍により、陳碩真と章叔胤が捕らえられ斬首される

 評として、明の謝肇淛などは「盗賊の一味とは言え、また一時の英雄でもある(雖盜賊之靡,亦一時之雄也。)」と言っている。

 彼女の野望はあえなく潰えてしまったが、この叛亂以来、睦州には天子基(天子が生まれ出る土台)と萬年楼(永遠に繁栄する高殿)があるのだ、という言いつたえが生まれた。そして彼女が死んでから五百年後の宋の時代、再び睦州の地から方臘が立ち上がることになるのである。

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