ひところ、京都から静岡に週一回通っていた。
朝は六時半。始発の新幹線に乗り、在来線とバスを乗り継いで勤務先に着く。着けば九時半。そこから一週間分の仕事に取りかかり、夜は当地で一泊。翌日も仕事の続きをやり、嵯峨嵐山駅の階段をふりかえると月が見えた。
飯はどうするかというと、昼は病院の職員食堂、夜は駅前の居酒屋である。
私の行きつけの居酒屋は「串十番」といった。寡黙な主人とよく笑う奥さんが切り盛りしていた店で、駅前ビルの2階にあった。留学にゆくとき、技師さんが壮行会をしてくれたのもこの店であった。奥さんに貰った手芸の置物は、日本からアメリカ、アメリカから日本への幾度の引越しで足がとれてしまい自立できなくなってしまったが、いつでも、私の仕事机には必ずこれがある。これまでずっと、そして、これからも――きっと、私が病理医を辞めるまでは。

ある日、日中の診断を反芻しながらカウンターで身体を休めていたら、
「……どうぞ」
居酒屋のおやじが珍しくしゃべったな、と思ったら黒いものが入った小鉢が目の前に置かれたことがあった。「これは?」「……イナゴ(のつくだにです)」
出されたものに文句は言わない主義であるから、ひとつふたつ口に運んでみたところ、案外と普通の佃煮の味であった。「小さな甲殻類の佃煮ですよ」と言われたら信じたに違いない。
むしゃむしゃやりながら「これはこの辺り(静岡)で食べるの?」と訊ねると、「……いや、故郷の方では(食べますが、このへんではあまり食べないようです)」おやじは東北の人であった。そういえば山形の童謡に「いなごちょいと出てお肴になりやれ」なんていうものがあったのをその時思い出した。
以来ときどき「あれある?」と注文するようになったのだが、あとから考えると出てくるイナゴはかなり小ぶりであった。そのことを尋ねると「……あまり大きいものは足の毛が(処理するのが大変で食感はこれくらいのものが一番)」という返答であった。なるほど。
イナゴを食べることはわが国でも昔からあったらしく、『本朝食鑑』に「野人・農児はこれを炙って食べる。味は香ばしくて美いという」とある。人見は「野人・農児」と書いているが、高知出身の寺田寅彦が東京に出てきたとき「自分の田舎では人間の食うものと思われていない蝗の佃煮をうまそうに食っている江戸っ子の児童」を見て仰天しているから*、東の方ではどこでも食っていたのかもしれない。
* 「コーヒー哲学序説」
わが国でイナゴを好んだ人物というと、京大総長であった小西重直がいの一番に挙がるだろう。彼は米澤の出身で「いなご禮讃」なんていう小文を著わすほどイナゴが好きであった。同僚にもしきりに勧めたらしく、閉口する浜田青陵を前に「あんなおいしいものはない。岡の海老ですな、いなごといふ字は虫篇に皇と書くでせう、全く虫の王樣だ、秋になつたらやつて來給へ、いなごの御馳走をしませう」などと言って笑っていたそうだ。
外国に同様の食習慣があるのかは知らないが、高校生の時分に『新約聖書』をぱらぱらめくっていたとき「バプテスマのヨハネはイナゴと野蜜を食べていた」なんて記述を見つけて「妙なもん食うとるなぁ」「信仰者は大変やなぁ」と思った記憶がある。
この点について、最近『大旅行記』を読んでいて気になる記述があった。バットゥータが西サハラのオアシス都市トゥワート Tuat を訪れた時のことである。
そこの住民の主食はタムルと蝗であり、蝗については、彼らのところに沢山いるので、ちょうどタムルを蓄えるのと同じように、蝗を貯蔵し、主食としている。彼らは、それを捕らえるために日の出前に出かけるが、それはその時刻に蝗が寒さのために飛べないからである。
イブン・バットゥータ 家島彦一訳 イブン・ジュザイイ編『大旅行記 8』平凡社、2002年10月, pp80
ここで言う蝗とはおそらくサバクトビバッタだろうか。タムルとはナツメヤシのことで、「野蜜」も同じ物を指すと考えられている。
「おや、洗礼者ヨハネがここにも」と思ったのだが、案外とサハラ砂漠に暮らす民のなかには、これらを主食とする部族が点在していたのではないだろうか。とすれば、ヨハネは別に粗食のつもりでもなんでもなく、單にその地方としては普通の食生活を送っていたところを、「妙なもん食うとるなぁ」「さすが信仰者」と記録されただけなのかもしれない。
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