荀灌

 西晋の頃、荀彧の玄孫(孫の孫)に荀崧という人がいた。彼はあるとき杜曾という流賊によって城を囲まれてしまい、絶体絶命の危機に陥った。自身は病に倒れ、食糧は底をつき、援軍のあてもなかった。あわや落城かと思われたとき、一人の少女が進み出て言った。

「私が包囲を脱して救援を求めに参ります」

 それは当時わずか十三歳であった彼の娘、荀灌であった。時に建興三年、今から千七百年以上も前にあったことである。

 彼女の事蹟は『晉書』列女に傳えられている。

荀崧小女灌,幼有奇節。崧為襄城太守,為杜曾所圍,力弱食盡,欲求救於故吏平南將軍石覽,計無從出。灌時年十三,乃率勇士數十人,踰城突圍夜出。賊追甚急,灌督厲將士,且戰且前,得入魯陽山獲免。自詣覽乞師,又為崧書與南中郎將周訪請援,仍結為兄弟,訪即遣子撫率三千人會石覽俱救崧。賊聞兵至,散走,灌之力也。

『晉書』列女傳

荀崧の末娘荀灌は幼い頃から人とは違った風があった。荀崧が都督荊州江北諸軍事、平南將軍の時、宛において流賊の杜曾に包囲された。荀崧の軍は弱く食糧も尽きてしまい、かつての部下の襄城郡太守石覽に救援を要請しようにも、囲みを突破する方法がなかった。荀灌はその時十三だったが、勇士數十人を率い、夜のうちに城壁を乗り越えて包囲を抜けた。杜曾の軍はすぐに追撃にかかったが、荀灌は將士を叱咤しつつ戦いながら進み、ついに魯陽山に入り追撃を振り切ることができた。そして自ら石覽のもとを訪れ出陣を求めた。また彼女は父の名を借りて手紙を書き、豫章郡太守の周訪に援軍を要請し、その手紙の中で彼に「兄弟」と呼びかけた。周訪はすぐさま子の周撫に三千の兵を与え、石覽とともに荀崧の救援に向かった。杜曾は援兵が来ると聞いて逃げ去った。これらはすべて荀灌の働きによるものである。

 荀灌は宛から襄城に向かうにあたりどの道を進んだのだろうか?

 彼女の手勢は少数であり、平地をまっすぐ進んでいては捕捉されるのが目に見えていたから、宛の北方にある山地に逃げこんだものと推測される。これが文中の「魯陽山」だろう。『後漢書』(正確には續漢書郡國志)に南陽郡「魯陽有魯山」とあり、正確には「魯山」と言うべきか。

 『後漢書』張玄傳に、彼は「魯陽山中に隠居した」と書かれている。その注に「山在今汝州南」とある(汝南ではないよ)。「汝州南」には魯陽縣がある。『三國志』韓暨傳に、彼もまた「魯陽山中に隠棲した」と書かれている。韓暨は南陽郡堵陽縣の人。堵陽縣と魯陽縣は互いに接し、間に山がある。「魯山」は「魯陽山」と同じと考えて良いと思われる。

 『三國志』司馬芝傳を読むと、彼が河内溫縣から荊州に避難する道中「魯陽山」で盗賊に襲われたらしい。河内から南下して荊州に赴くと、魯陽縣から荊州に入るのである。まだ幼かった司馬芝は老母を守って一人残り、盗賊に刀を突きつけられつつ「母老唯在諸君」と言っている。「母老いてただ諸君(盗賊)あり」とは「私の命は差し上げます、しかし母だけは助けてください(→残るのは老母と盗賊だけ→あとの孝行は頼みましたよ)」の意味である。盗賊は感心して「これは孝子だ。殺すのは義に悖る」と二人を解放したという。閑話休題。

 なお、この荀灌傳は官職の記載がおかしい。『晋書』荀崧傳によれば、彼はこの時既に襄城郡太守から都督荊州江北諸軍事、平南將軍に遷っており、宛に駐屯していた。杜曾傳、周訪傳ともに「荀崧が宛において包囲された」で一致している。荀崧傳によれば、後任かつ当時の襄城郡太守は石覽である。また周訪はたしかに南中郎將に任じられたが、それはもっと後、杜曾を撃破し武當に駆逐してからである。当時は豫章郡太守である。

 「兄弟」について。荀崧は名門潁川荀氏の出で、荀彧の玄孫である。そんな名家の人間が膝を屈して「兄弟」と言うのだから、寒門の出の周訪が感激せぬはずがない……という意味なのだろう。周訪が寒門の出というのは言い過ぎかもしれないが、この文はそういう意図で書かれたものじゃないかと思う。「襄城」は襄城郡。豫州に属し、泰始二年に潁川郡から分かれた。「故吏」は、『晋書』荀崧傳に「崧遣主簿石覽」とあるので「かつての部下」と訳した。


 彼女の父荀崧は東晋にも仕え光禄大夫に至ったが、荀灌がその後どうなったかはわからない。清の陸以湉も「惜しむらくは晋書はこの一事しか傳えておらず、彼女がどんな人物であったか詳しく述べていない」と嘆いている(『冷廬雜識』)。私も同感である。何かこの点を補う史料でもないかと探ってみたが、何も見つからなかった。

 かわりと言ってはなんだが、『三國志後傳』という小説の第百十一回「東晉江東接天位」で彼女の活躍が描かれているのを見つけることができた。『三國志後傳』は明代に書かれた小説で、題名通り三國志の続き物である。劉淵を劉備の子孫にこじつけて、漢が西晋を滅ぼすというスジの創作である。彼女の活躍は劇的な脱出ではなく、敵を言いくるめてすり抜けたことになっており、ちょっと地味なのだが、それは措いて読んでみることにしよう。

晉主探知賊勢猖熾,乃擢荀崧為荊州都督,屯兵皖城,共討賊寇。杜曾見陶侃連日不出,心中驚疑,使人打探。探得荀崧到皖,料其必用合兵夾攻之計,乃撇了陶侃,徑將兵馬先襲荀崧。荀崧初到,因染疾不能調兵,反被杜曾圍住皖城攻打。崧使僚佐緊守城池,賊甚肆蹶。崧慮兵糧寡少,恐被所陷,意欲修書往襄陽太守石覽處求救,問之,無人敢往。崧心憂煩,乃對其妻王氏嘆曰:「吾之不修,何見厄如是!今被賊曾困於危城,無人為吾求援。眼見臥病不能自起破賊,汝輩恐皆被其所擄矣!所恨者得子之晚,以致如是耳!奈何,奈何!」

『三國志後傳』

晉の皇帝は杜曾の勢が猖獗を極めているのを知ると、荀崧を荊州都督に抜擢し皖城に兵を置き,陶侃とともに賊に当たらせることにした。杜曾は陶侃が出撃してこないのを見て、どういう意図か疑い人をやって探らせたところ、荀崧が皖城に赴任したことを知った。これは我々を挟み撃ちにする計略であろうと杜曾は考え、陶侃はひとまず措いて軍を返し、先に荀崧を攻撃した。荀崧は皖城に着いたものの病気のために兵を指揮することができず、杜曾に皖城を囲まれ激しく攻め立てられた。荀崧は部下を統率して城を堅く守ったが敵の勢いは盛んであった。荀崧は兵糧が残り少ないことを憂慮し、落城を恐れて襄陽太守の石覽に書状を送って救援を求めようと使者を募ったが誰も名乗り出ようとしなかった。荀崧は煩悶のあまり妻の王氏にこぼした。
「私がふがいないためにこんな事態になってしまった。今、杜曾のやつのために城が危地に陥っているというのに、誰も救援を要請するために行こうとしない。病のために自ら敵を破ることもできず、お前達が敵に捕らわれるのを見ているしかないのだろうか。わが子はまだ小さいというのに……ああ、ああ、どうすればいいのだ!」

 皖城は廬江郡。石覽は襄陽にいることになっている。うーむ。はるばる襄陽まで助けを求めに行くよりも周訪のいる豫章の方が近いんじゃない?

崧女灌娘在側,年方一十四歲,素有膽量,見父煩惱,乃進言曰:「父親休憂,此城堅固可守,必無妨事。待女兒親往石太守處求救,必須借兵來解此危,不用過傷神思。」崧曰:「你是女兒,如何可去?縱然借得兵來,吾家亦出乖露醜惹人笑話矣!」女曰:「只要救得父母之危、軍民之難,去有何害?設若女兒不行,外救不至,滿城被害,一也;父親奉命討賊,賊至不能臨陣,朝廷豈知父病,以為不肯用命,二也;若還城遭賊破,全家被擄為奴,豈不勝似出乖以見石公乎?且又百姓為吾所誤,諸官屬為吾所陷,三也。有此之事在父身上,兒不親往求救,三軍不肯向前,焉能得過賊圍?」乃即裝束齊整,請掌軍參謀入內面見。荀崧只得分付點兵五百,令親信家丁引路,四更以後,開門出城。賊人趕來盤問,灌娘曰:「汝等圍城,欲困敵人耳。我是他州在此從學者,今逃回鄉的,須與將軍等無仇,休得見阻。」賊等見是稚子,亦不追趕,任其自去,皖兵遂得穩去。

 荀崧の娘荀灌がその場にいたが、彼女は十四歳で勇ましいたちだったので、父の懊悩を見て進み出ていった。
「お父さま、そのようにご心配なさらないでください。この城の守りは堅く、必ず守りきることができます。私が石太守への使者となって救援を求め、必ず援兵を率いてこの窮地を救いますから、どうかそう思い悩まないで」
 荀崧は言った。
「お前のような少女がどうやって行くというのだ。たとえ兵を連れてくることができても、いたいけな娘を一人送り出したとあっては、わが家の恥をさらすようなものではないか。世間の笑いものになるだろう」
 荀灌は答えた。
「お父さま、お母さまの危機と軍人、民衆の苦難を救わなければなりません。私が行くことに何も問題はないと思います。もし私が行かず、救援も来なければ、城の人々はみなむごい目に遭うでしょう。これがひとつめの理由です。お父さまは陛下の命を受けて賊を討ちにいらしたのに、病のために軍陣に立つことができません。もしこのことが朝廷に知られれば、命令を果たせないと思われるでしょう。これがふたつめの理由です。父上は私を行かせるのを恥ずかしいと仰いますが、もし私が行かなかったために城が落ちれば、一家全て捕らわれて奴婢の身に落とされるでしょう。いったいどちらが恥ずかしいことでしょうか。そして私が行かなければ民衆や父上の部下もまた恥辱を味わうことになるのです。これが三つ目の理由です。お父さまが病で苦しんでいらっしゃるのに、子ともあろう者が率先して親を救おうとしないようでは、兵士たちは敵と戦おうとしないでしょうし、敵の囲みを破ることもできないでしょう」
 そしてすぐ着替えると、率いてゆく兵を分けるよう參謀に求めた。荀崧は五百の兵を与え、腹心に道案内を命じた。夜中の午前二時すぎ、彼女は門を開いて城を出た。敵が駆けつけ誰何したので、彼女は答えた。
「お前たちの敵はこの城の人間だろう。私は學問のためにこの地に来ただけの余所者で、とばっちりを受けてかなわんので今から故郷に帰るところだ。お前たちの敵ではない。そこを空けてくれ」
 敵は相手が子供と見て追おうとせず、そのまま通らせた。彼女のあとについて皖城の兵も囲みから逃れることができた。

 さすがに五百もゾロゾロついて行ったら怪しまれるんじゃないですかね。

一路無辭,直至襄陽,投見石覽,獻上父書。石公看其書意,乃謂灌娘曰:「令尊府有急,如同我身一般,只消遣一盛使持箋來此,何須小姐親冒風塵?實是老夫之罪也!」灌娘曰:「家父因抱小疾,致被賊困,故此冒乾台下,伏望大人念同僚二字,慨賜救濟,則妾父子感恩莫罄矣。」覽曰:「容吾商議回話,且請後堂獻茶再見。」灌娘曰:「皖民急似燃眉,小婢自來,乃是代父躬拜鈞台,俯乞垂憫。」石覽曰:「只是一件,令尊有難,小姐親臨,理合星夜即往,奈因杜曾強猛,前日陶刺史亦被殺敗,退兵五十里,不敢與戰。我若以此見成弱兵先去,必被賊兵所敗,反添令尊煩惱,有誤小姐勞頓矣。昨者豫章周太守擒滅張彥,軍聲大震,賊寇長懼。我今修書一封,差親腹老家人,伏侍小姐同去見他。周士達平生慷慨忠義,必定不辭。小姐可弗憚辛苦,勉為一行,約其起兵,共救令尊,以破杜曾,方保必勝。我先引兵到界上遙張聲勢,與令尊掎角作威,慎毋憂慮。」灌娘曰:「周太府若不肯相念,吾即星夜來見大人矣。」石覽曰:「小姐自去,我又有書,必能成功,汝其放心。」灌娘拜謝,涕泣叮嚀而去。

 荀灌は脇目も振らず一路襄陽を目指し、石覽に会うと父の書状を渡した。石覽は書状を見て彼女に尋ねた。
「お父上に何か急な用事がございましたなら、使者に書を持たせて遣わしてくだされば良かったのに。わざわざお嬢様自身が風雨を冒してはるばるいらっしゃらなくても。いや、これは大変申訳ないことをいたしました」
 荀灌答えて、
「父は病を抱え、賊に城を囲まれ苦境に陥っています。故に私が参りました。石太守を頼りになる同僚と見こんで救援をお願いに参ったのです。もしお助けくださるなら、父も私も心より感謝いたします」
 石覽、
「これは幕僚と相談しませんことにはなんとも。奥で粗茶など差し上げますので、またあとで……」
 荀灌色を正して、
「皖城は焦眉の急にあります。私がここに自ら参りましたのは、父に代わって身を屈し憐れみを乞うためです」
 石覽、
「援軍の件ですが、御恩のある荀公が難に遭いそのお嬢様が自らこうしていらしたのですから、夜を日に継いで援軍に行くのが道理というものです。しかし、杜曾の勢力は強大でして、先日も陶刺史(陶侃)が大敗して五十里に渡って退き、今も戦いを避けているといいます。私がここの弱兵を率いて戦いを挑んでも、必ずや敗れるにちがいありません。もしそんなことになれば、かえってお父上の憂苦を深くするだけでなく、お嬢様の苦労までをも無駄にすることになりかねません。……ところで、豫章郡太守の周訪殿は先に張彥を討ち取り、その威名は広く知れ渡っており、賊も名を聞くだけで震え上がるとか。私は今から彼に手紙をしたため家の者に持たせますので、お嬢様も一緒に周訪殿をお訪ねになってはいかがでしょうか。周訪殿は平素より忠義に厚いお方ですから、決していやとは申しますまい。あなたが辛苦を厭わず行ってくだされば、援兵を約束してくれるでしょうし、そうすれば杜曾を打ち破ってともにお父上をお助けすることができるでしょう。私は一足先に兵を率いて皖城の境に進軍し、城内と連携し前後から敵の動きを牽制しようと思います。憂慮されるには及びません」
 荀灌、
「周太府がもし援軍を承知しなければ、私は急ぎ馳せ戻って参ります」
 石覽、
「あなた自らお訪ねになり、また私の手紙もあるのです。必ず上手くゆきます。ご心配召されるな」
 荀灌は拝謝し、泣きながら辞去した。

 荀灌の最後の台詞は「ダメだったら急いで帰ってきてまた御指示を仰ぎますね」くらいの意味かな。私は最初「そうやって厄介払いしようとしてもまた戻ってきますからね」のような恨みがましいニュアンスかと思った。さてどちらだろう。

徑至豫章,與石覽家人一同入見周訪,呈上石公之書,就把父親被困之事泣告一遍。訪公曰:「令尊為國被圍,不能出敵,即如我身罹賊之難也。此賊猖狂,石太守一人也奈他不何,必須我們親自去救,令尊方能破得此賊。」一面款待灌娘,一面令男周撫同夏文華、夏文盛領兵渡江先發,自與荀灌娘隨後而進。周撫至湖口,問二夏曰:「我等還是直向皖城去,還是等約石公一同而去?」夏文華曰:「荀公被圍多久,糧食必竭,且病不能守,須當速去,免被破城。縱賊驍勇,我願當先!」周撫然之,徑趨皖城而去。

 荀灌は急ぎ豫章に赴くと、石覽の家の者とともに周訪に会った。書状を差し出し、父の窮状を涙を流しながら述べた。周訪は言った。
「御父上が包囲され病のため敵と戦うことができないとは、我が身のことのように感ぜられる。敵は極めて狂暴であり、石太守一人ではいかんともし難いであろうが、私が手勢を率いて救援に向かえば、敵を打ち破ることができるであろう」
 周訪は荀灌を歓待しつつ、息子の周撫に命じて夏文華、夏文盛とともに兵を率いて先発させた。そして自らも荀灌とともにその後に続いた。湖口まで来たとき、周撫は夏文華、夏文盛に尋ねた。
「皖城に直行するべきだろうか? それとも石覽殿との合流を先にするべきだろうか?」
 夏文華は答えた。
「荀公は久しく包囲され、糧食は既に底をついているでしょうし、病のため防戦もままならないでしょう。急いで行かなければ落城は免れないと思われます。たとえ敵が驍勇の聞こえ高いとは言え、先鋒はお任せください!」
 周撫はこれを採用し、ただちに皖城へ向かった。

 荀灌は立派に使命を果たしたのであった。

杜曾自圍城攻打,日夕無休,幸得城垣甚固,不能得下,賊兵前後被擊損傷者七千餘人,官軍亦死二三千。荀崧扶病上城觀看,心中甚憂。杜曾以為必無救至,亦從緩困住。一日,部屬勸其急攻為上,不然,恐官兵一至,即難成功矣。曾聽之,遂親自督戰。剛才扣城,忽報豫章周訪自水路而來,襄陽石覽從陸路而來,兩郡大兵一齊來救皖城,止隔百有餘里矣,不時就到。杜曾聽說,吃了一驚,即與部渠等議曰:「周撫、二夏皆驍勇勍敵之將,又且周太守自來,合同石襄陽二處之兵,必難與爭勝負者,不若趁其未到,退回竟陵,再作計較。」眾皆然之,乃拔寨逃去。人報荀崧知道,崧曰:「賊兵亟退,必是何方救至矣。」使人出探消息,只見周撫之兵船躋躋而至。崧曰:「求救襄陽未到,喜得周豫章先來,解此倒懸,明日必須親自勞軍拜謝,以答厚情。」正議間,只見灌娘跑馬登岸,入城見父,把至襄陽轉豫章,再見周太守之事,細說一遍。荀崧大喜曰:「吾兒雖系女身,直有男子胸襟,使弟如你一般,吾卻無憂矣!」遂親出江邊,迎接周撫入城,設宴謝勞,齎犒物分賞將士。撫見賊去,恐父往返涉勞,乃辭荀崧,回軍而去。

 杜曾は日夜城に猛攻を加えていたが、城壁が非常に堅固で落とすことができなかった。杜曾の兵で傷ついた者は合わせて七千人あまりにのぼり、官軍にも二三千人の戦死者がでていた。荀崧は病をおして城壁に登っては、援軍の姿を探して鬱々としていた。杜曾は城の後詰めはないと考え、包囲を少し緩めて持久戦の構えをとった。ある日、部下は急襲を上策として杜曾に勧めた。でなければ、官兵がひとたび來れば城を落とすのが非常に難しくなるとのことであった。杜曾はそれを聞いて遂に自ら督戦して攻め落とすことを決意し、まさに攻撃を始めようとしたとき、急報が届いた。それによれば、豫章の周訪が水路より、襄陽の石覽もまた陸路より皖城の救援に向かっており、両方の大軍は既に百里あまりに迫り時をおかずして到着するであろう、ということであった。杜曾は驚き主だった者を集めて相談した。
「周撫と夏文華、夏文盛はみな驍將の誉れ高く、また周訪自ら軍を率いて向かってきている。石覽の襄陽の兵と合流されては勝ち目がない。敵が到着しないうちに竟陵に退き、また後のことを考えよう」
 異論を唱える者はおらず、杜曾は軍営を引き払って撤退した。
 報せを受けて敵の撤退を知った荀崧が「賊兵が慌ただしく引き揚げていったということは、必ずやどこからか援兵が来たに違いない」と人を派遣して調べさせたところ、周撫の軍船が続々とやってくるのが見えた。荀崧は言った。
「襄陽に救援を求めたがまだ来ないうちに、喜ばしいことに周豫章の軍が先に来てくれた。この苦しみからやっと解放されたのだ。明日必ず自ら出向いて拝謝しこの厚情にこたえなければならんな」
 そんなことを彼が話していたとき、荀灌は馬を走らせて船から岸に上がると、城に入って父のもとに駆けつけた。そして襄陽に行ったこと、石覽の勧めで豫章にも行ったこと、周太守に会ったこと、これまでにあったことを堰を切ったように父に話した。荀崧は破顔して「お前は女の子だが、男子の気概がある。弟もお前を見習ってくれれば、私はもう将来何の心配もないよ」と答えた。そして川岸で周撫を迎え一緒に入城し、祝宴を設けてその労をねぎらい、將士にひとしく恩賞を与えた。周撫は敵が去ったのを見て、父が無駄足を食うのを恐れ、荀崧のもとを辞去するとすみやかに軍を還したのであった。

 やっぱり父娘の再会はいいですな。

 個人的な感想だが、再会の辞はもうちょっと、お互いの無事を祝し彼女の功績を讃える言葉があってもよかったのではないか。「女子だけれど云々」とか「弟もみならって云々」ではなく、まっすぐ彼女の偉績を讃えるべきだろう。まあまあ、時代を考えるとしかたがないのかもしれないが。

 弟の話が出たので、彼女の弟のことをすこし書いて終わりにしよう。『晋書』によれば、荀崧には彼女の他に男子が二人いたとされる。荀蕤と荀羨である。荀羨は蘇峻の乱の時に七歳と書かれているから、この時まだ生まれていなかったということになる。荀蕤は字を令遠と言い、儀容端正で風采に優れ、立ち居振舞が雅やかであった。彼女のような華々しい活躍は傳えられていないが、蜀を平定した桓温が豫章郡公を望んだとき、荀蕤は「もし桓温が河北や河洛の地(黃河・洛水流域)を取り戻し皇帝の陵墓を修復したなら、いったい次は何を与えるつもりですか」と反対して骨のあるところを見せている。その後東陽太守、建威將軍、吳國內史となって亡くなったのだった。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!
  • URLをコピーしました!
目次