梅干と番茶 ―― 二日酔いあれこれ

 研修医時代、梅干のビンと番茶のカンカンをいつも机に置いていた。なんのためかと言うと、二日酔い対策である。

 研修医は数ヶ月ごとに部署をうつるため、そのたびに軽い歓迎会やら送別会がある。また、なにせストレスの多い職業であるから、気晴らしに研修医同士で飲みに行くことも多い。なお悪いことに、私は病院職員互助会の会長職――会長と言っても単なるお飾りで、書記が決めたことにポンポン判を押すだけであったが――も兼ねていたから、定期的に宴会を主催しなければならない。となると、乾杯やら献杯やらで当然飲む回数も増える。二日酔いはどうしても避けられない、というわけであった。

 ほとほと困ったので、私淑する開高先生の処方を私はいつも使うことにしていた。先生は「二日酔いになったらどういう手をうつか。これは禿げをどうしたらいいかとおなじくらい大昔からの難問である」と言いつつ、いろいろと処方を挙げておられる。

アルカセルツァーという白い錠剤はコップのなかでぶくぶく泡をたて、舌に荒涼とした、むきだしのコンクリ壁のようなニヒルを残す薬だけどよく効く。もしこれがなかったら、熱い番茶にボタボタのぶざまな、太り気味のお婆ンのオッパイの先端はこうでもあろうかと思えるような、皺だらけの大粒の梅干、これを入れ、よくつきくずして、お茶といっしょにすすること。それからムカムカ、ヅキヅキ、ゲロゲロをこらえこらえ、何でもいいから食べること。

『生物としての静物』

 アルカセルツァーとは NSAIDs である。私もどうしようもなくなった時は、medtoolz先生の教えに従い、同僚に「すまんが***と***を出してくれ」と頼んだものである(医者は自分に處方はできないので)。この組合わせは「とにかく、きく」のだが、毎度クスリ、、、に頼るのも何なので、基本は梅干と番茶であった。


 酒を飲んだあと、乾いた喉を癒やす水は実に美味いものである。

 梅干を崩した番茶を猫背になってズズズとすすっていると、まさに五臓六腑にしみわたる心地がするものである。

 このへんは誰しも思うところらしく、晩唐~前蜀の韋荘の詩にこんなものがある。

  酒渇何方療  酒渇 何の方にかいやさん
  江波一掬清  江波 一掬清し
  瀉甌如練色  おうそそげば 練色の如く
  漱歯作泉聲  歯にすすげば 泉聲を作す
  味帯他山雪  味は帯ぶ 他山の雪
  光含白露精  光は含む 白露の精
  只應千古後  只應ただまさに千古の後にも
  長稱伯倫情  長く伯倫の情にかなうべし

酒を飲んだ後の喉の渇きを癒やす妙薬は、小波さざなみの清き流れの一掬ひとすくいである。
小さい瓶に汲めば色は練絹の如く、歯を漱げば泉の声がする。
他山の雪の味を帯び、白露の精の光を含む。
必ずや千古の後まで変わらず、長く酒飲みの心に適うであろう。

 まさに然り、とでも言うべきか。この点べつに水に限らぬらしく、南宋の蘇易簡は漬物の汁なんかを褒め称えている。 

太宗命蘇易簡詳講文中子,中有楊素遺子食經羹藜含糗之說。上因問曰:「食品稱珍,何物為最?」易簡對曰:「臣聞物無定味,適口者珍,臣止知虀汁為美。」太宗笑問其故,曰:「臣憶一夕寒甚,擁燒火,乘興痛飲,大醉,就寢,四鼓始醒。以重衾所擁,咽吻燥渴,時中庭月明,殘雪中覆一虀盎,不暇呼僮,披衣掬雪,以兩手滿引數缶,連沃渴肺,咀虀數莖,燦若金脆。臣此時自謂上界仙廚,鸞脯鳳腊,殆恐不及。屢欲作冰壺先生傳,紀其事,因循未暇也。」太宗笑然之。

『事實類苑』巻十五

宋の太宗が蘇易簡に命じ「文中子中説」を講義させたが、中に「越公(楊素)は子に『食經』を遺したが、子は『羹藜含糗(粗末な食べ物)なんかいりません』と受け取らなかった」という記述があった。太宗は蘇易簡に問うた。
「最も珍味と言えるものは何だろうか?」
 蘇易簡は答えた。
「私が思いますに、食物に定まった味はございません。口に合う物が珍味であります。私はつけものの汁が美味いと思ったことがございます」
 太宗は笑ってそのわけを問うた。
「ある酷く寒い日の夜、火鉢にあたりながら痛飲して大いに酔っぱらい、そのまま寝てしまったことがございました。四鼓の刻(夜中の二時)に目が覚めましたが、喉が渇いてしかたないので、ちょうど月が明るかったのを幸い、蒲団にくるまったまま庭に出てみたところ、雪に覆われた虀盎つけものがめがございました。召使いを呼ぶ間も惜しんで、衣で虀盎の雪を払い、両手で漬物の残り汁をすくって何杯も飲み、渇きを癒やしました。そして漬物をいくつか貪ると、漬物は金のように燦めき口の中で脆く崩れるではありませんか。私はこの時、天上界に住む仙人の厨で食べられるという、鸞のほじしや鳳のほじしも、きっとこれには及ばないだろうと思ったのです。そこで冰壺先生の傳を作りたいと思っているのですが、いまだ果せずにおります。」
 太宗は笑ってなるほどと言った。

 これも開高先生の梅干しと番茶に連なるものかもしれない。


 二日酔いは苦しいものである。

 私の場合いちばん酷いのが頭痛で、これを昔の人は「アタピン」と呼んだりした。「アタピン」とは、「アタマがピンピンする」の略で、戦前から戦後にかけて、質の悪い酒しかなかった頃によく使われた。またアタピンを起こす質の悪い酒を指すこともあった。

 昔の人はどうやってアタピンを予防・治療していたのだろう、と思いつくまま文献を渉猟してみると、いろいろ工夫していたことがわかる。

 『漢書』郊祀志「景星」に、「泰尊柘漿析朝酲」という句がある。「泰尊のシャ漿は朝酲ふつかよいく」と読む。『中華名物考』によれば、柘漿とはサトウキビの絞り汁のことらしい。それを煮詰めて精製すると砂糖ができるのだから、多少不純物を含んだ砂糖汁といったところか。水分の補給には良いかもしれないが、甘味が腹に貯まってかえって悪心を増悪させるかもしれない*。
* 歳の離れた友人にきいたところによれば、そんなことはなく喉ごし極めて爽やかであるという。

 ちょっと時代が下って三国時代になると、魏の文帝(曹丕)は「ブドウが二日酔いに効く」と言っている。

中國珍果甚多,且復為說蒲萄。當其朱夏涉秋,尚有餘暑,醉酒宿醒,掩露而食。甘而不䬼,脆而不酸,冷而不寒。味長汁多,除煩解䬼。又釀以為酒,甘於麴蘖,善醉而易醒。道之固以流㵪咽唾,況親食之耶?他方之果,寧有疋者!

『太平御覽』卷九百七十二 果部九

中国わがくにには、珍重すべき果物がたくさんある。まずは葡萄について説こうではないか。炎夏から秋にかけて、暑気がまだ残っているような時、また酒に酔い、二日酔いに悩まされる時、葡萄をとってその露を食う。甘さはしつこくなく、柔らかくて酸っぱくなく、冷ややかではあるが歯にしみない。味は口の中に長く残り、果汁に富んで、暑さ煩わしさを和らげる。また、醸して酒にすると、麹でつくった酒よりも甘く、酔い心地がよく、二日酔いすることもない。いやはや、こう書いているだけで、涎が流れ、口の中にたまるほどだと言うのに、まして実際に食べたら、どうなることやら。他の果物で葡萄に匹敵するものがあるだろうか!

 これが家臣一同に示したみことのりであるというから恐れ入る。なお葡萄は『史記』に見え、漢代には既に大宛国経由で持ちこまれていたらしい。

 南宋の『山家清供』では、沆瀣漿こうかいしょうが酒を飲んだ後に効くという。これは甘蔗かんしょ蘿菔だいこんをそれぞれ角に切って、水でとろけるほど煮るだけの料理らしい。

 明代に成立した『水滸伝』二十一回(百二十回本)では、二日酔いの宋江に「二陳湯にちんとう」を勧める場面がある。二陳湯は、陳皮ちんぴ半夏はんげ茯苓ぶくりょう甘草かんぞう少々、生姜しょうきょうを配合した漢方薬。私は漢方について何も知らないのでどのような機序によるのかはわからない。

 清代の『燕京歳時記』には、スイカが「暑気払いをすることもできればまた二日酔いを解くこともできる。だから私はかつて清涼飲だと名づけたのである(既能清暑,又可解酲,故予嘗呼為清涼飲)」とある。それにしても、「清涼飲」という言葉が既にあることに驚かされる。

 本邦では、『和漢三才圖會』で橙(だいだい、かぼす)が「二日酔いのときにこれを食べるとすみやかに酔いがさめる」とされている。また滑稽本を見ると、たくさん飲んだ翌日には、茶の中に塩を入れたもの(塩茶)や水分多めの雑炊(水雑炊)、湯豆腐が良いとされていたらしい。これらは真っ当な手段で、電解質および水分の補給は基本である。

 江戸の医師、人見必大は「大酒を飲むときは干柿をヘソの穴に入れてから飲めば大丈夫」と聞き、実際に試してみたらしい。したたかに酔っぱらってからヘソの柿を取って臭いをかいだところ、ひどく酒臭かったので、「柿の肉が臍窠へそのあなから酒を引いたので」こんな臭いがするのだ、効果アリと結論づけている。……まあ、なんだ。そんなところにツッコんでりゃそりゃ臭くもなるさ。

 近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾我会稽山」では、ところてんを勧めている。

コリヤ/\亭主、水くれいと横柄なる。やすいこと。同じくは、心太ところてんになされたら、そつちもこつちも後薬のちぐすり暑気あつけを去つて渇きを止め、二日酔ふつかゑひひのよろ/\も、一膳食へば心太こころぶと

 これはところてん屋「天下一、根本仕出しの家」の売り口上であるから、まあまあ、本当に効果があるのかはわからぬ。


 こうやって見てみると、昔の人もいろいろの物を試したことがわかる。基本的にはゆっくり静養しておれば治るものであるが、人は愚かというか何というか、治ったら治ったで、また飲みたくなるのが救えない。

  鬱林歩障晝遮明  鬱林うつりん歩障ほしょう 晝のめいを遮り
  一炷濃香養病酲  一炷いっちゅうの濃香 病酲びょうていを養う
  何事晚來還欲飲  何事ぞ晚來ばんらい た飲まんと欲す
  隔牆聞賣蛤蜊聲  しょうへだて 蛤蜊かうりるのこえを聞く

鬱蒼と茂る森林を描いた衝立で昼間の明かりを遮り、濃香を一炷ひとたきして、二日酔いの身を休めていると、どうしたことだろう、夕方になるとまた酒が飲みたくなったではないか。ああ……アサリ売りの声が垣根越しに聞こえてくるではないか(……これはもう、貝をサカナにまた一杯やるしかあるまい)。

 まことに、気持ちはよくわかる。しかし毎度これだけ痛い目にあっていながら、その苦しさに学ばないのはなぜだろうか……と久しぶりに酸っぱい番茶を啜りながら思ったのだった。

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