春王丸・安王丸の最期

 COVID-19 による休校令が出た時、子供の無聊を慰めるためいろいろな出版社が自社書籍の無料公開を行った。いい歳した私もその余恵に預かったのだが、小学館が『学習まんが少年少女日本の歴史』をオンラインで公開していると聞いたとき、小学生当時ひどく痛ましい思いをしたページのことを思い出した。

 それは結城合戦によって捕らえられた足利持氏の遺児、春王丸・安王丸の最期である。小学生の私は、兄弟の最期の悲惨さのあまりすぐにページを閉じ、ついにその本を開くことができなかった。もう四十を過ぎたおっさんになってから、三十年ぶりにネット上でそのページを恐る恐る開いてみたのである。また最近金蓮寺の史料で彼らの辞世を知る機会があったので、ここに記しておこうと思う。


 当時の鎌倉公方足利持氏は將軍位を密かに狙っていたが、正長元年に足利義教が將軍に就任したためにその野望を阻まれた。持氏は代わりに鎌倉府の権力の強化を図り、在地領主を奉公衆として組織化し、親幕派の管領上杉憲実と対立した。しかし相模国早河尻合戦で持氏は幕府側に敗北し、永享十一年二月、鎌倉の永安寺で一族・主従とともに自刃した。これが永享の乱である。

 足利持氏の二人の遺児、春王丸と安王丸は乳母に連れられ下野国日光山に逃れた。そして下野国茂木城、常陸国中郡荘木所城へと移動し挙兵した。これに呼応した下総国の結城氏朝は兄弟を結城城に迎え、反上杉党に結城城への参集を説いたのである。

『小学館版学習まんが少年少女日本の歴史』九巻「立ちあがる民衆」より(以下同じ)

 氏朝の檄に応えて、コマ中にあるように常陸の佐竹義憲や下野の宇都宮家綱らが結城城へ集結した。一方で幕府は上杉清方(憲実の弟)をはじめ、信濃の小笠原政康、甲斐の武田信重、越後の長尾実景らを動員し、結城城を包囲した。

 攻城戦は一年に及んだが、嘉吉元年四月十六日の総攻撃によって結城城は落ち、氏朝は自刃し、春王丸・安王丸は捕らえられた。兄弟はいったん鎌倉に留め置かれたあと、五月五日京に向けて送られることになった。そして美濃国青野原まで来たときのことである。

 將軍義教から「京に送るに及ばず。道中で兄弟を殺害せよ」という命令が届いたのであった。兵士の様子から春王丸は自らのさだめを悟り、安王丸に歌をもってこのことを傳えた。

夏草や青野か原のいふせきに身のゆくゑこそ聞かまほしけれ
(夏草や青野か原に咲花の身の行衛こそ聞まほしけれ)

括弧内の歌については「後作か 是ハ悪し」とある。

この夏草の生い茂る青野ヶ原にいると、我が身の行末を思って胸がつかえる思いがする。そこに咲く花よ、私はこれからどうなるのだろうか。

 安王丸ももとより覚悟ができていた。

身のゆくゑ何かなけかん道芝の露の宿をけふや消らむ
(身の行衛定めなければ旅の空命もけふに限ると思へば)

括弧内の歌については「同上」(後作か 是ハ悪し)とある。

我が身の行末はどうなるかわかりませんが、この旅の空の下、道の芝草に光る露のように儚く今日消えてしまうのでしょうね。

 二人の様子を見ていた護送の武士たちはその運命を哀れに思った。しかし命に反するわけにもゆかず、相談の結果、近くの金蓮寺の僧侶に二人を引きあわせたのであった。それが自空上人こと遊行寺の十七代、暉幽上人である。上人は、この穢土の榮華の儚いこと、浄土の樂果の素晴らしいことを説き、二人に喜阿弥陀仏春王丸、独阿弥陀仏安王丸という法名を授けた。二人は掌を合わせて法話に聞き入った。

 その日の夜、ちょうど日附が変わろうという時、西を向いて念仏を誦しつつ、兄弟は並んで頸を打たれた。その表情は穏やかで、骸の合掌は些かも崩れていなかったという――時に嘉吉元年五月十六日(西暦1441年6月5日)、春王丸十三歳、安王丸十一歳のときのことであった。

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