子供のころ欲しかったドラえもんのひみつ道具に「ようろうおつまみ」がある。

もちろん幼稚園児に酒の味なぞ分かるはずもないので、私の頭の中では、キリンレモンのようなジュースに変換されていたはずである。どうでもいい話だが、「キリンレモンのうた」を「プリン ペラン♪」に替えて歌うとなかなか楽しいので、深夜の救急外来ででも試してみるとよい。きっと看護師さんの冷たい視線を愉しむことができるであろう。閑話休題。
「ようろうおつまみ」の名前の元となった「養老の滝」は、鎌倉時代の『十訓抄』六ノ十八の説話に基づく。梗概はこうである。美濃の国に貧しい男がいて父親を養っていたが、その父親、ひどい飲兵衛で寝ても覚めても酒を欲しがる。あるとき、男が山中で薪を取っていると、酒の香りが漂ってきた。不思議に思って辺りを見回すと、石の中から水が流れ出しており、汲んでなめてみると素晴らしい酒だったのである。男は大喜びして、毎日この酒を汲んでは満足するまで父に飲ませたのであった――という話である。朝夕関係なく子供に酒を要求するダメおやじに酒を与えて良いものか分からぬが、当人が満足なら、いいことだ。
このひみつ道具の良い点は、ただの水が酒になる事である。
酒を造るには、まずデンプンを麹や酵素によって糖化させ、この糖を酵母によりアルコール発酵させる必要があるが、一方で「ようろうおつまみ」の作用機序は極めて単純である。
- 「ようろうおつまみ」を食べる
- 水を飲む
つまり step 1 で「ようろうおつまみ」を歯牙で粉砕し、唾液中のアミラーゼと混合することで何らかの糖化反応を起こさせていると考えられる。「口噛み酒」と同じである。通常そこからアルコール発酵を完了させるためには、最低でも数日の時間が必要であるが、そこは未来の道具であるので、何らかの極めて優秀な発酵促進剤や「上とうのウイスキー」と感じさせる flavor が含まれているのであろう。
また、上掲の次ページで、のび太の母(玉子)は水を大量に飲んでいるが、飲めば飲むほど酔っている点からは、かなりの量の水を酒に変換することが可能と推測される。であれば、スペースに限りがあり、水による洗浄ですぐに食道・胃以下に流出してしまう口腔内で反応を起こさせるよりも、ジョッキかなにかに貯めた水に、粉砕した「ようろうおつまみ」と唾液を加えた方が効率が良くはないだろうか? それだと風情もへったくれもないが。
さて、この「酒のタネ」とでも言うべき「ようろうおつまみ」だが、似たようなことを考える人はいつの世にもいるものである。
たとえば、『梁書』巻五十四に「(扶南國の南、頓遜國に)酒樹がある。安石榴に似ていて、花を取ってその汁を甕の中に入れると、数日で酒になる」とある*。また李氏朝鮮の地理書『択里志』には、琉球の「酒泉石」という、水をためるとあっという間に美酒に変わる石のことが書かれている**。
* 『梁書』巻五十四「又有酒樹,似安石榴,采其花汁停甕中,數日成酒。」
** 『択里志』「酒泉石者,方石一塊,中央凹,每以淸水貯,則變爲美酒。」
最も古いものは西晋の崔豹による『古今注』だろうか。
烏孫國有青田核,莫測其樹實之形,至中國者,但得其核耳。得清水則有酒味出,如醇美好酒。核大如六升瓠,空之以盛水,俄而成酒。劉章得兩核,集賓客設之,常供二十人之飲。一核盡,一核所盛,已復中飲。飲盡隨更註水,隨盡隨盛,不可久置。久置則苦不可飲。名曰青田酒。
『古今注』巻下 草木第六
「劉章」は前漢の城陽王だが、三国時代の益州牧で、劉備に国を奪われた劉璋の誤りだと言う人もいる。『酉陽雑俎』では「蜀後主」つまり劉禅のことになっている。いずれにしても大した根拠はなさそうである。
この「青田核」とは何だろうか。
烏孫とは、漢代から南北朝にかけて、天山山脈北方のイリ川流域、イシク・クリ湖周辺を拠点にした遊牧民族である。清の紀昀はそういうものがあるのか実際に尋ねたことががあるらしく、こんなことを書いている。
又《古今註》載烏孫有青田核,大如六升瓠,空之以盛水,俄而成酒。案烏孫即今伊犁地,問之額魯特,皆云無此。(引用者略)均小說附會之詞也。
『閱微草堂筆記』巻十一

麹を使わない造酒法というと、葡萄がすぐに思いつく。葡萄の実にはブドウ糖が多く含まれ、皮には酵母が多数附着している。前漢には既に大宛経由で葡萄が持ちこまれていたから、「青田核」のタネは干しぶどうかもしれない。レーズンから作る酒としては古代カルタゴで作られたpassumがあり、それがローマに伝わり、今でもPASSITO等の甘口ワインとして製造されているはずである。レーズンを水に漬けるだけのような単純な製法ではないと思うが……。ずっと漬けたままだと味がエグくなるのも何となく納得される。
しかし干しブドウでは「青田核は六升の瓠ほどで、中に水を入れる」という条件を満たしていない。この点については「容器は別に」ではいけないだろうか。例えば『アラビアンナイト』第五百五十七夜にこんなくだりがあったりする。
沢山のかぼちゃが実っているのを見つけましたが、そのうちには、熟し枯れたものも多数ありました。わたくしはそのうちのよく乾いた大きなのをとりあげ、その頭のところに穴をあけて、中身をとり去ってきれいにし、それを持って、葡萄の木のところまで歩いて行きました。そうして、かぼちゃの皮へ葡萄の汁をつめると、頭の所に蓋をし、日光の当たるところにおいて、生粋の葡萄酒になるまで、数日間そのままにしておきました。
前嶋信次訳『アラビアン・ナイト 12』東洋文庫399 1981年7月刊
中に入れているのは葡萄の絞り汁であるが、まあまあ水と干しブドウでも代用可能であろう。たぶん。カボチャは単なる容器として用いられている。カボチャの原産は南米だが、ウリ科の別の物でもかまわない。
もちろんこんなものは私の妄想である。
ただ、もしかすると、劉禅だか劉璋だかが宴会の席で
「最近西の方から珍しいものを献上されたので、今日は皆に披露しようと思う。このヒョウタンじゃが、この中に水を入れて数日おくと酒になるという珍宝じゃ。こちらは今しがた水を入れたばかりじゃが、飲んでみるがいい」
「なるほど、単なる水でございますな」
「で、こちらは数日前に水を入れたものじゃ」
「おお、なんとこれは素晴らしい酒ではありませんか!……おや、いま麝香の糞のようなものが落ちましたが」
「はははバレたか。これはな……」
――なんていう茶番があったとしたらおもしろいのになぁ、と思ったのである。
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