黒すぐり!よりによって、こんなものを!

 中学生くらいになると色気づいて父親の本棚を漁ったりするものである。

 ある日、なんぞ助平な本でもないかと父の本棚の背表紙を眺めていたら、ハヤカワ文庫の『スペイン要塞を撃滅せよ』というおもしろそうな本があった。

 さっそく拝借して読んだところ、これがめっぽうおもしろかった。さっそく舞い戻って他の巻をかき集め寝床にもぐりこみ、しばし寝られぬ夜を過ごした。

 そこから帆船小説に興味を持ち手当たり次第に読んだのだが、当時既に海洋冒険小説のブームは去っており、たいていは古本屋で集めるしかなかった。

 ボライソー、オーブリー、オークショットなど、当時手に入った本はあらかた読んだかと思うが、私はやはりはじめに読んだホーンブロワーシリーズが一番好きである。なかでもスペイン要塞 – ホットスパー – トルコ沖 – パナマの一連の流れが好みで何度読みかえしたか知れない。まあちょっと文句をつけるとすると、糟糠の妻マリアに冷たすぎるのとブッシュ副長の最期があっさりしすぎているのが気にくわないくらいか。ああそれと、出世してからの彼はどうもバーバラとかいう貴族の女にうつつを抜かし政治向きの話が多くなり、若かりし頃の溌剌とした聡明さが失われているように思われてならない。でもまあそれくらいである。


 中学生のころは食欲旺盛な時期だが、なにせあの時代の船上生活であるから、美味そうなものは基本出てこない。当時は酒も飲まなかったからラム酒と聞いてもどんなものか見当もつかない。さすがに机に打ちつけコクゾウムシを出しつつ食べる固いビスケットや、焦がしたパンを煎じたコーヒーに憧れることはなかったのだが、なぜかひとつ強烈な印象を残したものがあった。それが「黒すぐり」である。

 「黒すぐり」はホーンブロワーが海尉艦長としてホットスパー号を任された巻に出てくる。妻マリアの母、メイスン夫人が艦長用の個人的食料を調達してくれたのだが、彼女が買ってきたジャムがホーンブロワーの大嫌いな「黒すぐり」だったのである。

He spread a biscuit with the precious butter, and here was the jam. Blackcurrant! Of all the misguided purchases!

Forester, C. S. Hornblower and the Hotspur

 菊池光氏の訳は確か「黒すぐり!よりによって、こんなものを!」だった。読んだのは二十年以上前なのに我ながらよく憶えているものだ。

 「黒すぐりのジャムというのは英国人も忌避するほどマズいものなんだ。いったいどんなものなんだろう」と思ったが、当時はインターネットなどというものは普及しておらず、どこで手に入るのかもわからないまま、とりあえず辞書で blackcurrant という単語だけを覚えたのだった。


 二十年ほどしてアメリカに行った時、いいところのクラブに招かれたことがあった。

 Chairman of department が個人的に入っているクラブで、後になって入会金を聞いたらなんと7万ドルということであった。今のレートだと1000万円くらいだろうか。それをポンと出せるとは、同じ病理医でも日米でこうまで待遇が違うものか。さて、まあそんな場違いなところであるから、普段はひどい格好をしている私も久しぶりにジャケットのホコリを払い、すっかり締め方を忘れたネクタイをして出かけた。私の普段着のひどさは、帰国して実家に顔を出したとき父が呆れ果て「『異土の乞食かたい』とはこういうことか」と言ったほどである。

……まあそれはいいとして、食事の方はいたって普通なバイキング形式であった。

 私と同僚は一巡目メインディッシュはビーフを平らげたが、同僚「そういえばメインはチキンもありましたな」私「もう一度行きますか!」と二巡目に並んだ。そこで次はチキンをもらったのだが、食い意地の張った私にウェイターが恭しく示したチキン用のジャムが blackcurrant、あの「黒すぐり」だったのである。

 思わず、

「黒すぐり!よりによって、こんなものを!」

と声に出してしまったが、まわりはアメリカ人であるから、もう一度

“Blackcurrant. Of all the misguided purchases”

と小声でつぶやき、「黒すぐり」をほんの少し貰った。そしてテーブルに戻り恐る恐る味わってみたのだが、この「黒すぐり」は案に外れ、やや独特の匂いと酸味はあるものの、とりたてて不味いものとは思われなかった。むしろアメリカ人に食わせるものにしては上等な方ではないか。そういえば、ホーンブロワーは最後の方で黒すぐりの味が好きになり、ジャムが全部なくなってしまったのを惜しんでいたことを思い出した。

This was the last of the blackcurrant jam; Hornblower, ruefully contemplating the sinking level in the final pot, admitted to himself that compulsorily he had actually acquired a taste for blackcurrant.

Forester, C. S. Hornblower and the Hotspur

 こうして長年の夢(?)を果たしたわけだが、訳語というものは面白いものだと思った。

 今から思えば「カシス!」や「ブラックカラント!」ではホーンブロワーの怒りは表現できないように思われる。そして「黒すぐり!」でなければ私も二十年も覚えていなかっただろう。故菊池光氏の翻訳についてはむかしいくつか誤謬の指摘を読んだことがあったが、私はやはり言葉選びのセンスに優れた人だったのだろう、と思っている。

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