今川氏輝は大永五年(1525年)元服した。のちの今川家第十代当主である。 当時今川家に逗留していた連歌師の宗長は、この時のことをこう書き記している。
十一月廿日、龍王殿元服ありて、五郎氏輝おのおの祝言馳走例年にもこえ侍ると也。同廿五日、かの祝言法樂連歌發句、
霜とほしはつもとゆひの若みどり
古今集聞書五册、口傳切紙八枚、氏輝へまゐらせおき侍る。あとはかもなきことはづかしく思はぬには侍らねど、氏輝廿にもあまり、この道いたり深くならせ給ひてのち、自見ありて無用のものとも思ひ捨給はば、八人童子に與へらるべからむや。
『宗長手記』
元服の祝に『古今集』の聞書・口傳切紙を氏輝に捧げている。
初めて読んだとき私が怪訝に思ったのは、のちに氏輝が不要と思ったならばこれらを「八人童子」に与えればよい、と宗長が書いていることである。『古今集』の聞書や口傳切紙は、宗長の師匠宗祇が生涯をかけて考究し、また宗長にも傳えた貴重な品である。宗長は時に齢七十を超え、老い先短い身であったから、このように執着が薄かったのだろうか。
最近ひょんなことから、この件について解を与えられた。
それは『耳底記』である。これは烏丸光広と細川藤孝(幽斎)の間で交わされた和歌に関する問答を記録した書物であり、その中で幽斎はこう語っている。

宗長は古今伝授をしたけれども。あまり念をも入れなんだなり。われは連歌しにてこそあれ道を伝へてなににすべきにもあらず。連歌のつけあぢだによくはといふてあまりかまはなんだとなり
連歌師として自負を持っていた宗長にとって、古今伝授はあくまで付けたりだったのだ。ならば、氏輝が飽けば「八人童子に与え」ても未練はなかったのだろう。
「八人童子」について補足しておこう。
「八人童子」とは「火」をあらわす言葉であり、「八人童子に与える」とは、そのまま火にくべることをあらわす。出所は『酉陽雑俎』である。
翟天師名乾祐,峽中人。長六尺。手大尺餘,每揖人,手過胸前。臥常虛枕。晚年往往言將來事。常入夔州市,大言曰:「今夕當有八人過此,可善待之。」人不之悟。其夜火焚數百家,八人乃火字也。
『酉陽雑俎』巻二

まあしかし正直なところ「八人イコール火」はかなり苦しいと思わなくもない。
「火にくべる」を「~童子に与える」という言い方自体はそう珍しいものではない。しかし、ふつうは「八人童子」ではなく「丙丁童子」である。五行説によれば「丙丁」は十干ではひのえ・ひのとであり、いずれも火をあらわすからである。たとえば、畑を耕していた兄弟が水が勝手に沸くカマドを掘り出したが、役人が調べてみると内側に篆字で「丙丁」と書かれていた、なんていう話がある。
『茶餘客話』巻十九「嘉靖二十七年戊申,長沙有兄弟二人耕土,獲一扛灶,置鍋水即沸,可炊爨,不用柴炭。二人送入府,視其內,有一小道士篆丙丁二字於背,又有諸葛行灶數字,明末猶貯長沙府庫。」
「丙丁童子」の用例は『碧巌録』の「丙丁童子來求火」が有名だが、基本的に「このような書物は本来他人に見せられるようなものではないのだが」という謙辞として用いられることが多い。
さてもかやうのあだごとども書付侍事。かたはらいたく憚なきにしもあらず。然はあれども。此源氏物語の歌双紙の奥に。とはりを一筆のせてと。望みあるに任て筆をとり侍りつゐでに。都よりうつりかはりし身の有さま。寢覺のなぐさめぐさとも成りぬるを。おぼえず記侍なるべし。いまは彼志にはあらず。丙丁童子に傳へ侍るべし。
『なぐさめ草』
他見は禁制なれとも。此人一目見せて。その後はすみやかに丙丁童子にさつけられるへし。
『耕雲口伝』
祖宗の尊ふとき御教訓のすぢを述むも、時にあはざらんには中なかに賢き業とふつにおもひ止りぬ、されど、これを丙丁童子にあたへむも本意なければ、聊言葉のてにをはをかえて、子孫に傳へしめすになん、
『明訓一斑抄』
ここまで書いてふと思い出したのだが、「まんが日本昔ばなし」に「おしのと火童子」という回があった。梗概はこうである。
美濃に正直者の焼き物屋夫婦がいた。夫婦の間には「おしの」という娘が一人いた。あるとき、おっとうは嫁入り道具の器を焼くという大仕事を請け負った。寝る間を惜しんで働き続けたが、釜焚きの一番の難所、という時になって無理がたたって倒れてしまった。やむなくおっかあが代わりに割り木をくべていたが、何も知らず薪を追加したために不完全燃焼で黒い煙がもくもくと立ちのぼった。おしのは一心に窯の神様に祈ったところ、突然風が吹いて窯に酸素が供給され、美しい炎が立ちのぼった。おしのが窯の中を覗くと、火童子が焼物を取り囲んで踊っていた、という話である。
さて、ここまでくれば、この「火童子」なるものが何人いるか気になることであろう。
…
……
………うん、まあ、そう、リクツ(?)通りにはゆかないものである。
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